産経新聞連載記事 「ウルトラ・ダラーを追え!」
(対談形式 平成18年5月3日)
vol.3 周恩来と思いがけぬ会見
《「私は、その人ほど意志的な風貌をその後絶えて見たことがない」―。十五年前に発表された手嶋さんの著書『ニッポンFSXを撃て』のプロローグはこんな書き出しで始まる。「その人」とは故周恩来首相。手嶋さんは大学生時代の昭和四十六年、この中国の名宰相に”長時間取材”したという》
そもそもなぜ中国に?
手嶋 偶然でした。四十五年、ぼくの郷里の友達がどこかでガリ版刷りのチラシを拾ってきたら、「中国旅行参加者募集 学生対象 費用は三万円」なんて書いてあった。「こりゃあ詐欺じゃないか」なんていいながら仲間と旅行社の「オフィス」に行ったら、ビルのホールを衝立で仕切ってあって、そこに机があるだけ。「やっぱり詐欺だ」と(笑 ) 。でも、当時、日中には国交がなかった。ぼくらはぜひ、激動期の中同を見ておきたかった。だから、「だまされたっていいや」という気持ちで参加しました。
それが、周首相と会見する幸運にめぐまれた。
手嶋 実は二度行ってましてね。最初がその「詐欺覚悟の旅」。で、中国側は、従来のイデオロギーというか、共産主義思想とは一線を画すぼくたちのことを“評価”していたのでしょうね。出自ははなはだ怪しいと思ったかもしれないけれど ( 笑 ) 。で、翌年夏にも呼んでくれ、そこで思いがけず、周首相とぼくたちが会談することになりました。通訳の唐家旋さん ( 前外相、現国務委員 ) が非常に緊張した表情で「直ちに正装してください」と言ってきたのですが、ぼくたちはシャツとズボンくらいしか用意しておらず、困惑したことを覚えています。
会見は数時間におよんだそうですね。
手嶋 いまから考えると、周首相はぼくたちを通じて実にさまざまなシグナルを西側に送っていました。一つは暗闘を繰り広げていた党内の極左派批判。それは周首相の学生時代の「車が橋を落ちるのは右からでも左からでも同じじゃないか」という当時の発言ににじんでいます。そして会見からまもなく、周首相と対立していた林彪副主席が逃亡中に墜落死するという大事件が起きています。もっともそれを世界が知ることになったのは十カ月も後のことでしたが。
ほかには?
手嶋 一番重要なシグナルがソ連からの“風圧”でした。戦後、人類は二度、核戦争の瀬戸際を経験しました。一つは米ソによるキューバ危機。もう一つは“会見”前後の中ソ危機です。後者はあまり知られていませんでしたが、最近、米国が公表した資料で分かり、昨年、ドキュメンタリー番組『外交の瞬間』にまとめました。三十年前の会見以来、抱いてきた疑問に対する回答。それがNHKでの最後の仕事となりました。
聞き手 関厚夫