産経新聞連載記事 「ウルトラ・ダラーを追え!」
(対談形式 平成18年5月2日)
vol.2 政界のフィクサーとの出会い
北海道の炭鉱王の家庭出身だそうですね
手嶋 「王」だなんてとんでもない(笑)。父が中小炭鉱をいくつか経営していただけです。父は九州の生まれだったのですが、母を追って北海道に渡ってきた、ということになっています ( 笑 ) 。それはさておき、石炭が“黒いダイヤ”と呼ばれ、日本のエネルギー供給を背負っていた時代に北海道で少年期を過ごしたのですが、ぼくにはほかの方々が経験している大事なことが三つほど欠けているような気がするのです。
といいますと?
手嶋 まずは「高度成長期」です。炭鉱というものは、高度成長に反比例して衰退していきました。だから、いまは、右肩上がりだった昭和三十~四十年代の高度成長期に対する懐古ブームのようですが、私にはどうもピンとこない。それと受験戦争。道央部の公立校に進学したのですが、競争が苛烈な「団塊の世代」の後期に育ったにもかかわらず、それまでも、その後も、受験勉強とは縁遠い学牛生活を送りました。
で、三つ目は?
手嶋 その前に少年時代の体験を少し。当時は炭鉱の全盛期でさまざまな方がわが家にこられた。父は昔かたぎの炭鉱主でしてね。どんなえらいお客さまも、なかなか上座にあげようとしない。でも、本当に真っ黒な、現場から出てきたばかりのような坑内作業員の方が訪れてきたときには、上座にすえて自らお酌をしていました。
一線で命を張って働いている方々を大切にされていたのですね。
手嶋 また、父は右翼でも何でもないのですが、後に「あ、あのおじさんは児玉誉士夫だったんだ」「あの人は田中清玄だったのか」などと分かる、政界のフィクサーたちとの出会いが子供のころにありました。その一方で「最左派」と呼ばれた炭鉱労組のトップが年始にきて、父からまとまった“贈り物”をもらって喜んで帰ってゆく。建前と現実は違う-。教科書が主張する「戦後民主主義」とは異なった“素顔”がごく身近にあった。それゆえの戦後民主主義に対する信奉の欠如、これが三つ目です。
少し高校時代の話を。
手嶋 おおらかなものでしたね。よく学校をさぼって読書にいそしんだり、悪さをして職員室で怒鳴られたり…。勉強をしなかった報いがワシントンに初赴任したときにきましてね。だって、RとLの発音に区別をつけないと話が通じないことにそのとき初めて気づいたのですから ( 笑 ) 。ぼくには当時、東京の学校に行く、という選択肢もありました。でも、北海道の方がはるかに変化に富んでいて面白く、自分の財産になると考えて地元にとどまりました。いまもその決断は大正解だったと思っています。
聞き手 関厚夫