手嶋龍一

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ウルトラ・ダラー

二十一世紀の世界を舞台にした本格的諜報小説の誕生

起訴休職外務事務官 佐藤 優

本書は冷戦後、日本人によって書かれた初の本格的インテリジェンス(諜報)小説だ。よくスパイ小説と現実の諜報活動は異なると言われるが、そうでもない。例えば、イギリス秘密情報局(SIS)幹部キム・フィルピーがソ連のスパイだった事件については、グレアム・グリーンの『ヒューマン・ファクター』(ハヤカワ文庫)の方がこの事件についてのノンフイクションよりも事態の本質.をより深く衝いていると思う。グレアム・グリーン自身がSISに勤務した履歴があり、椿報源を秘匿するために「本当のような嘘」と「嘘のような本当のこと」を適宜ブレンドする必要があったのだが、手嶋龍一氏の場合も、ある巨大なネットワークから提供された文書資料の情報源を秘匿するために小説という手法をとったのだと評者は見ている。

本書はアイルランドのダブリンで現れた精巧な偽百ドル札「ウルトラ・ダラー」の謎解きを軸に、東京、京都、モスクワ、ユジノサハリンスク、キエフ、パリを舞台に劇的に物語が展開される。戦前、陸軍登戸研究所が中国国民党政権が用いる紙幣の精巧なニセ札を刷り、中国経済を攪乱させるとともに軍事物資をニセ札で買い付けるという秘密作戦(杉工作)を展開したが、北朝鮮のニセ札工作の基本図は杉工作に極めて似ている。つまり「ウルトラ・ダラー」でウクライナからミサイルを買い付け、同時に偽ドルでアメリカ経済を混乱させるという工作だ。手嶋氏はこの謎解きに日朝国交正常化交渉や外務省内部の権力抗争を巧みに絡ませ、いくつもの逆転劇を潜ませているが、それについて諭評することは小説の核心部分の種明かしにつながるので禁欲しよう。

この小説は細部が面白い。例えば、 232~235頁にアメリカ国務省の秘密電報が出てくるが、この電報の体裁も文体も日本外務省か用いている秘密度の非常に高い「極秘・限定配布」そのものである。しかも外交史料館で見ることのできるような古文書のスタイルではなく、最近、外務省で用いられる文体で綴られている。

更にモスクワの北朝鮮大使館を向かいの高層ビルから監視する場面は実に手が込んでいる。「監視ポイントは、北朝鮮大使館の構内をそっくり視野に収めることができる第二棟の四十三階の部屋だった。(中略)カーテンの隙間から見下ろすと確かにに大使館の動きが芋に取るように監視できる。望遠鏡を使えば、モスフイルム通りのトロリー・バスから停車所に降りてくる現地の雇員や下級の館員の顔も判別することができる」(86頁)

この詰は半分事実で半分嘘だ。この高層ビルは実在し、そこからトロリー・バスに乗り降りする北朝鮮人の写真を撮影し、それが貴重な基礎資料になっているのは事実だ。しかし、ここから北朝鮮大使館の事務棟は見えない。館員宿舎の一部が見えるだけだ。北朝鮮は監視されていることを織り込んだ上で、偽装行動をとっている。実際の北朝鮮大使館に対する監視ポイントは別の場所にある。手嶋氏は、真の情報源を隠すためにあえて高層ビルを小細工として用いているのであろう。しかし、このビルでも監視をしているので完全な作り話ではない。神も悪魔も細部に宿るのである。更に日朝国交正常化交渉に閲する以下の記述は意味深長だ。

「現代史の重要な一頁を飾るべき公電は何者かの手によって抹殺されたのではない。後世の審判を仰ぐべき第一級の史料たる公電は、そもそも初めから書かれていなかったのだ」(225頁)

この行を見て、背筋が寒くなった外務省幹部(最近退官した人を含む)が数人いると思う。日朝国交正常北交渉に関して、本当に重要な情報が記録に残っていないということは、歴史に対する犯罪だ。手嶋氏は、恐らく、良心を失っていない外務省幹部からの情報を基に、外務官僚に対して、「外交には秘密がある。現時点では嘘をついても仕方がない。しかし、歴史に対しては謙虚に、真実を公文書に残すのが外交官としての責任だ」と警告を発しているのであろう。

筆者の見立てでは本書の刊行を機に、手嶋氏の周辺に国際インテリジェンスに従事する人々の緩い知的なネットワークができることになると思う。そして、ここを基盤に、これまで治安・警察関係者、もしくは軍事評論家の独壇揚であった日本メディアのインテリジェンス市場に質的な変花が生じることになろう。

『文藝春秋』2006年5月号掲載

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