情報戦争の実態描く
橋本 五郎 (読売新聞編集委員)
新しいインテリジェンス(情報)小説が登場した。物語として描かれた「事実」が、次々起きる現実によって裏付けられるという、堅牢なまでのフィクションである。
1968年12月、東京の下町から突然、若い印刷工が消えた。88年7月、米マサチューセッツ州の名門製紙会社からドル紙幣の原材料が運び出された。89年2月、スイス・ローザンヌの情報戦争の実態描く由緒あるメーカーが売った精巧な凹版印刷機械がマカオで足取りを絶った・・・。
時も場所も異なるこれら事実が、実は精緻を極めた偽100ドル札「ウルトラ・ダラー」の製造という一点に収斂していた。それは独裁者の指令による北朝鮮の国家プロジェクトだったのだ。英国の秘密情報部員でもあるBBC東京特派員は、米国のシークレット・サービスや日本の女性官房副長官らと情報のキャッチボールを繰り返しながら核心に迫っていく。
追跡の行く手に見えたものは北朝鮮の単なる外貨稼ぎではなかった。背後には恐るべき目的があり、その奥には長い間にわたって練られた大国のしたたかな外交戦略があった。
この小説の真骨頂は、知られざる情報の世界の細密な描写にあるだけではない。外交はいかにあるべきか、情報戦略の要諦とは何かが印象深い言葉で綴られている。
「外交とはつまるとこる公電を書き綴っていくわざなのだ。プロの外交官なら、交渉の記録だけは手元に必ず残しておき、歴史の裁きを受ける。これは外交官という職業を選んだ者が受けなければならない最後の審判なのだ」
外交の公理を論じながら、この小説には不思議なまでの「彩り」がある。凛とした日本女性の強さと美しさ、着物や京料理の持つ雅び、京篠笛の嫋嫋とした響き…。そこには「日本的なるもの」への限りない憧憬がある。長く特派員生活をしてきた著者のナショナリストの一面を垣闇見た思いがする。
『読売新聞』2006年3月12日掲載