ニュースの裏にある底知れぬ闇
児玉 清(俳優・書評家)
かつて、フレデリック・フォーサイスの小説デビュー作『ジャッカルの日』で味わった滅茶面白さと、事実のもたらす凄まじき迫力に大きく息を呑んだ思いは、今も鮮烈に甦る。ロイター通信記者の経験をフルに生かし、余人には許されぬ情報を土台としたフランス大統領暗殺未遂事件は、それこそ有無を言わせぬ圧倒的な事実の力で読者の心をむんずと掴んだのだった。
そして、ここにまた新たなる衝撃のドキュメンタリー・ノベルが登場した。北朝鮮の米ドル偽札問題に焦点を当てた、前NHKワシントン支局長手嶋龍一のデビュー小説『ウルトラ・ダラー』である。
最近、マスコミを賑わしているアメリカの北朝鮮に対する経済制裁措置。俄かに注目を浴びたマカオの銀行を使って北朝鮮が行うマネー・ロンダリングや違法な貿易決済による外貨獲得の実態。さらには数々の裏工作活動を行ってきたとされる北朝鮮の商社「朝光貿易」の存在・・・。こうした一連の報道を裏づけるかのように、否、より詳細にディテールを網羅し、精緻な情報と驚愕の真実で綴られた物語は、核兵器や拉致問題を含め、無法国家北朝鮮の在り方を白日の下に晒すという点で、日本国民必読の書といえよう。
物語は、京都での浮世絵のオークション会場から始まる。逸品の登場で熱気に包まれるセリの模様を伝えようと、畳敷きの会場に一人のイギリス人が正座していた。日本語を自在に操る彼こそ、この小説の主人公、BBC(英国放送協会)のラジオ特派員スティーブンである。浮世絵を超高値で落札したのは日本のハイテク長者で、この物語で重要な役割を担う会社社長橋浦だったが、落札の瞬間、スティーブンの携帯電話が点滅した。画面には「ダブリンに新種の偽百ドル札『ウルトラ・ダラー』あらわる。ただちに帰京されたし。委細は通信回線にて」とあった。実は特派員は隠れ蓑、ダブルO(オー)の殺しの番号こそもたないが、彼は英国秘密情報部員“ジェームズ・ボンド”だったのである。
ここで、物語は事件の背景をお浚いする形で過去に遡る。まずは1968年、東京の荒川で起った若き彫刻職人の失踪事件。88年、マサチューセッツ州ダルトンの名門企業ノートン社での、ドル紙幣用パルプ原料の不可解な搬出。89年、スイス・ローザンヌにある伝説の印刷機械メーカーから正規の手続きでマカオに出荷された紙幣印刷機一台が行方不明となる。そして90年、古美術印刷の分野で抜群の技術力を誇る日本の印刷会社社長がデンマーク・コペンハーゲンで忽然と姿を消す。この四つの事件を結ぶものは何か?そして2002年、アイルランド勤労者党首でありながら、IRAの武闘派を陰で支えるケビン・ファラガーが北朝鮮から託され、モスクワから持ち帰った偽百ドル札が発見されたのだ。この偽札は、その功緻な出来栄えから「ウルトラ・ダラー」と呼ばれるようになる。
機密情報を掴んだスティーブンは、その闇を追い始める。同時に官房副長官の女性キャリア高遠希恵(たかとお きえ)も密かに調査を開始し、ワシントンではアメリカ財務省の女性シークレット・サービス、オリアナ・ファルコーネのチームも動き出す。モスクワ、香港、パリ、東京を結んで、偽ドルハンターたちの熾烈な情報戦が始まる。交錯する大国の思惑、偽ドル感知器をめぐる疑惑、衝撃の取引、そして「拉致」を超える驚愕の真実が暴かれる中、物語は壮絶なエンディングへとジェット・コースター・ライディングする。
ヒーローのスティーブンの愛車は、ポンコツに近い祖父譲りのMGBロードスター。ボンドの華やかさには遠く及ばないが、上品で質実剛健、爽やかで好感がもてる。恋人の麻子は篠笛の師匠。人物設定が鮮やかで、エニグマティック。見事な筆捌きに、つい二人に感情移入してしまう。また、高遠希恵も凛とした颯爽さが頼もしく、モデルは誰なのかという興味も湧くが、問題は日本の対北朝鮮外交を約十年にわたり牛耳ってきたアジア大洋州局長・瀧澤勲である。この小説のベースが真実だとすれば、否、真実であるに違いないのだが、彼の裏切り行為は、実に恐ろしく、暗澹たる思いが心を覆う。
もし誰も見分けられないドル紙幣を偽造することができたら、それは真札として世界で通用する。それを国家が行っているとしたら…。暴かれる疑惑の実体は、拉致事件の背景にある壮大な陰謀が水面下から徐々に浮び上がるようで慄然とする。
ニュースの裏にある底知れぬ闇の深さを教えてくれる物語は、特派員であった作者ならではの独壇場。衝撃の真実を小説という薄いオブラートに包んだ手嶋龍一のデビュー小説は、アメリカ大統領レーガンをして、「これは真実の作り話だ」と驚嘆させた、トム・クランシーのデビュー作『レッド・オクトーバーを追え』同様、まさに衝撃の一冊だ。
月刊「波」(新潮社)2006年3月号掲載