「ノンフィクションとフィクション その悪魔的なる関係」
映画 『グアンタナモ、僕達が見た真実』 解説コラム
「あなたはジャーナリストなのに、なぜ、小説というかたちで 『ウルトラ・ダラー』 の筆を執ったのですか ? そこに描かれている事柄は、限りなく事実に近いではありませんか」
日本人印刷工の拉致事件が、北の独裁国家が手がける精巧な百ドル札を産む伏線となり、その偽札はやがて新型の核巡航ミサイルの購入資金に充てられる―。この物語を出版した直後から、「小説なのか、リアル・ストーリーなのか」という問いかけを繰り返し受けてきた。
映画 『グアンタナモ、僕達が見た真実』 を見て、僕は、あー、そうだったんだ、と思わず頷いてしまった。ノンフィクションとフィクション。悪魔的な、と呼びたくなるほど、両者の間柄はもつれにもつれている。この映画は、その関係を見事に解きほぐしてひとつの回答を示していたからだ。
ウィンターボトム、ホワイトクロス両監督は、グアンタナモ収容所に真っ向から挑み、現代の強制収容キャンプである「Xレイ」や「デルタ」を鮮烈なシーンで描いている。キャンプの鉄塔の一本、一本が僕の記憶に刻まれていた。NHKスペシャル『カリブの囚われ人』を制作するため二年間にわたって取材したからだ。放映は、映画に二年先立つ2004年だった。映画の制作陣は、収容基地のセットが実物と寸分も違っていないことにこだわったという。確かにわれわれのハイビジョン・カメラが捉えた映像と区別がつかない出来栄えとなっている。
実在の主人公、アシフ、シャフィク、ローヘルは、れっきとしたイギリス国民でありながら、パキスタン系のムスリムだったことが災いして、グアンタナモで囚われ人にされてしまう。アシフら三人は、映像に登場してインタビューに応じ、「僕達が見た真実」を語っている。そして、映画のカメラはその証言をなぞるように、パキスタンからアフガニスタンヘと飛び、彼らと永い旅路を続けていく。
映画では、三人に容貌のよく似た若者に演じさせているのだが、そこに繰り広げられているシーンは、ノンフィクション映像と見紛うばかりだ。だが、これはドキュメンタリー映画ではない。ウィンターボトム監督も、この作品をノンフィクションの系譜には置いていない。
「三人が話してくれた事実を、彼らに黙って独自に調べたり、話の脈絡があうかどうかを点検してみようなどとは思わなかった」
ウィンターボトム監督は、制作側が三人の証言を信じていないと観客に疑わせるような演出を一切慎んだと語っている。映画『グアンタナモ、僕達の見た真実」は、三人の若者にぴったりと寄り添って制作されたのである。
僕たちの映像ドキュメンタリーは、そんなウィンターボトム作品の対極に位置している。ドキュメンタリーの取材者は、描く対象の側に正義ありと堅く信じていても、その映像はどこか醒めていなければならない。取材者と取材対象の間にある距離が保たれていなければ、見る側がその作品に全幅の信頼を寄せることができないからだ。これは「客観報道」などという安手の言い訳とはまったくちがう。いわばドキュメンタリーの公理なのである。
ウィンターボトムとホワイトクロスの両監督は、徹底して三人の主人公を信じきることで、ドキュメンタリーの戦列を意図して離れていった。ふたりの監督は、「ブッシュの戦争」がアメリカの正義を致命的に損なっていると断じたからだろう。映画に込められた怒りはそれほどまでに烈しかった。
罪なき人々を拉致し去った独裁体制への憤りが、僕にノンフィクションの戦列を離脱させ、小説『ウルトラ・ダラー』を書かせたのかもしれない。この映画の一カット、一カットに見入りながら、ふとそんな感慨にとらわれた。
思い返せば、映像ドキュメンタリー『カリブの囚われ人』を仕上げると、僕は直ちに『ウルトラ・ダラー』の取材に取りかかっている。このとき、すでにノンフィクションの此岸からフィクションの彼岸へと、深くて暗い川を渡りはじめていたのかもしれない。
映像に投影している事柄が、事実か否か―。映像ドキュメンタリーにあっては、それがすべてを律している。この掟が、いかなる場合も、作品の骨格を貫いていなければならない。ジャーナリストが事実を極めることは、峻険な頂を目指すのに似ている。グアンタナモの収容基地にいる囚われ人は果たしてテロリストなのか。われわれの問いかけにラムズフェルド国防長官はこう応じている。
「いまグアンタナモに収容しているのは、アフガニスタンという名の戦場で捕らえた連中だ。だが、彼らを裁判にかけて刑務所に送り、罪に問おうとしているわけではない。我々は、戦闘地域から彼らを隔離してしまうことで、再び武器を携えてテロリズムの戦線に戻らないよう身柄をおさえているだけだ」
グアンタナモの収容基地には、アメリカ建国の礎となった崇高な理念が及ばないことをブッシュ政権の閣僚自らが認めているのだ。姿が見えないテロリストと戦うには、疑わしき者を拘留しておくことをためらわない―。こうして生まれたのが、グアンタナモの収容キャンプだった。戦争に関する国際法規も、アメリカの国内法も及ぱないカリブの地に囚われ人を収容し、徹底した尋問を通じてテロ情報を自白させる。こうした「グアンタナモ方式」はやがてイラクにも適用され、各地で虐待事件を引き起こす出発点となった。
僕は、かつて、一枚の「大統領命令」が、罪なき市井の人々を強制キャンプに送り込んだ日系市民の悲劇に触れて、映像ドキュメンタリーをこう締めくくった。
「現代の強制収容キャンプに手を染めたいまのアメリ力は、テロとの戦いを急ぐあまり、建国以来、丘の上に燦然と翻していた自由の旗を自ら傷つけてはいないでしょうか。国際社会がそんなアメリカに冷ややかな眼差しを向けるようになってしまえば、テロリズムという名の暴力に立ち向かういまの世界は、一層深い混迷に陥ってしまう。カリブの囚われ人たちは、いまこう私たちに語りかけているように思います」
9.11事件から五年の時間を経て、アメリカやイギリスでは、多くの映画が相次いで制作された。そうした作品群にあって『グアンタナモ、僕達が見た真実』は、秀作としてながく語り継がれていくだろう。その一方で、映像ドキュメンタリーを取り巻く状況は寥々としている。イラク戦争の正邪が、誰の眼にも明らかになった「五周年の回顧作品」は放送されても、戦いのさなかに本質を衝いた作品はほとんど生まれなかったと言っていい。カリブの囚われ人のなかにテロリストは潜んでいるのではないか。解き放たれた収容者がテロに手を染める恐れはないか。そうした懸念が各国の巨大メディアを不安に陥れたのだろう。映像ノンフィクションは痩せさらばえている。『グアンタナモ、僕達の見た真実』のような剛直なフィクションに拮抗する映像ノンフィクションよ、いでよ!と願ってやまない。
「グアンタナモ、僕達が見た真実」マスコミ用パンフレットに掲載