菅政権と米中危機 「大中華圏」と「日米豪印同盟」のはざまで
メッセージ
超大国アメリカにはいま、大地を切り裂いて地溝帯が深々と走っている――。この国と安全保障同盟の契りを永きに亘って結んできた日本から見ていてそう思う。共和党が多数を占める「レッドステート」と民主党が優勢な「ブルーステート」。二〇二〇年のアメリカ大統領選挙の結果は、全米の五〇州が真っ二つに分かれている様を国際社会に見せつけた。ジョー・バイデンは、ドナルド・トランプの「敗北宣言」なき異例の「勝利演説」に臨んで、「分断でなく統合の大統領を目指す」と訴えた。「我らが大統領はこれからもトランプだ」と叫ぶ人々はホワイトハウスに押しかけてバイデン支持派と鋭く対峙している。四年にいちど巡りくる戦火は熄んだが、「二つのアメリカ」の亀裂は、かえって深まっている。
隠れトランプ支持者は、バイデン支持者の報復を恐れてトランプに一票を投じることをひた隠し、繁栄するアメリカの象徴、ニューヨークの五番街の高級店は、窓ガラスを黒い板で覆って選挙後の暴動に備えている。その一方で民主党の支持者たちのなかには、極右組織の暴力を恐れて自らが暮す街から抜け出す光景も見受けられた。
分かれたる家は立つこと能わず――。共和党のリンカーン大統領は、史上類を見ない悲惨な内戦を戦った祖国を結束させるため、至上の信念である奴隷解放への歩みを緩めることまでした。そんな産みの苦しみを経て、合衆国は「アメリカの世紀」への道を歩んでいった。「リンカーンの国」はいま、南北戦争以来の危機に直面している。
トランプという異形の大統領は、尾羽打ち枯らして政治の表舞台から姿を消そうとしている。トランプという名の嵐が通り過ぎれば、かつてのアメリカが蘇るだろう――そう期待する者はやがて厳しい現実に裏切られるにちがいない。トランプ大統領を生んだこの国の現況が変わったわけではないからだ。「トランプのアメリカ」は、結果であって原因ではない。トランプは「アメリカ・ファースト」を叫んで制裁関税を弄んだが、トランプの治世がこの国を保護主義に走らせた訳ではない。
「アメリカ版ものづくり産業」の凋落こそが、トランプという異形の指導者を生んだのである。このポピュリスト大統領は二〇一六年の戦いで、中国製品の攻勢で失業の危機に怯える白人労働者層の心を鷲掴みにし、ラストベルト地帯を軒並み攻略してホワイトハウスに入った。翻ってバイデン次期大統領は、ミシガン、ウイスコンシン、ぺンシルバニアのラストベルト地帯をからくも奪還して辛勝した。錆びついた工業地帯の白人労働者層を見捨てて、米中貿易戦争を手じまいにすることなど到底かなうまい。
トランプ時代の外交・安全保障政策もまた、「アメリカ・ファースト」に色濃く染めあげられてしまった。東アジアと欧州の主要同盟国に駐留経費の引き上げを求め、自由の理念を分かち合う西側同盟の絆を損なった。東アジアの対中国包囲網を下支えするはずだったTPP(環太平洋自由貿易協定)からも離脱してしまった。これこそ、「一帯一路」という名の大中華圏構想に対置されるべき自由の砦だった。バイデン次期民主党政権が、白人労働者層と議会を説得してTPPに復帰を宣言できるかが試金石となろう。
アメリカは決して凋落などしていない――かつてこの国に十数年に亘って暮らし、素顔のアメリカ人に接してきた者とそう思う。いまも様々な国から若く可能性に満ちた才能を迎え入れ、インターネット・テクノロジーを駆使しながら、ずば抜けた社会・経済システムの構築に圧倒的な力量を見せつけてきた。かつての「奴隷と移民の国」は、巨大なエネルギーを湛える「多民族国家」に変貌しつつある。それだけにトランプが、人種間の対立を激化させて、アメリカが秘めている未来へのエネルギーを殺いでしまった罪は重い。
ジョー・バイデンとカマラ・ハリスの正副次期大統領には、アメリカ民主主義の理念の再構築こそが求められている。アメリカは強大な力のゆえでなく、自由な思想と政治体制を守り抜くためにその力を使ってこそ世界のリーダーたり得る――。バイデン・ハリスのふたりは、身をもって示してほしいと思う。
超大国アメリカの揺らぎは、日本をはじめとする同盟国との関係をも変えずにはおかない。とりわけ「習近平の中国」が、国家安全維持法を香港に適用して「一国二制度」を葬り去り、南シナ海を内海とし、尖閣諸島を窺うなかにあっては、日米同盟はこれまでにない重みを持ち始めている。
こうした情勢下で新たに船出した菅義偉内閣は、従来の惰性を脱した対米戦略の構築を迫られている。菅総理は「日米同盟をさらに強固なものにしつつ、同時に中国とは良好で安定した関係を築いていく」と述べている。東アジアの厳しい現実は、かかる外交辞令で乗り切れるほど生易しいものではなくなりつつある。日本国内では危機感がまだ希薄だが、台湾海峡のうねりは次第に高まりを見せている。台湾海峡に有事が持ち上がった時には、アメリカの同盟国、ニッポンは、超大国と軍事行動を共にするのか。中国に慮って局外中立の道を探るのか。
今回の対論では、そうした判断の礎となる「習近平の中国」をどう見るのかについて佐藤優氏と様々な視点から分析を試みた。アメリカの当局者や戦略専門家は、東西冷戦のソ連にダブらせて、習近平の中国を「マルクス・レーニン主義」と断じている。だが、永くモスクワに在って、ソ連の崩壊を目の当たりにした佐藤優氏は、アメリカの識者たちの見立てに真っ向から異を唱えている。現在の中国は、喪われた大中華圏の版図とその権益、そして栄光を取り戻したいと考えているが、スターリンのソ連のようにその思想を輸出して浸透を図ろうとしている訳でなない。本書では「スターリンのソ連」と「習近平の中国」の違いを詳しく分析し、海洋強国を呼号する中国といかに向き合っていくべきかを論じてみた。アメリカはしばしば「理念の共和国」と形容されてきた。それだけに、アメリカが分断を乗り超えて、デモクラシーの輝きを取り戻すことが、中華圏の復権を目指すいまの中国を圧倒するカギになることを本書から汲み取っていただければと願っている。
二〇二〇年十一月八日
バイデン当確の速報に接しつつ。
外交ジャーナリスト・作家 手嶋龍一
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