心の底の静かな愛国心
インテリジェンスの内部事情に深く通暁した外交ジャーナリストの手嶋龍一氏にしか書けない作品だ。『寒い国から帰ってきたスパイ』『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』『パナマの仕立屋』などのスパイ小説を書いたジョン・ル・カレ(本名デービッド・コーンウェル)の父親ロナルド・コーンウェルが一流の詐欺師であったことをさまざまなエピソードとともに紹介する。そのような詐欺師の息子を英国秘密情報部(SIS。いわゆるMI6)がなぜ採用したかについて手嶋氏はこう読み解く。
「インテリジェンス・ワールドでは、偽りと欺きと裏切りを日常として生きなければならない。そうした宿命を負うものが、詐欺師の父親のもとで育っていれば、桁外れの人間的魅力にさらに磨きがかかり、そのうえ忍耐力も備わっているはずだ。そんなスパイはエージェントの心をわしづかみにし、思いもかけぬ成果をあげるかもしれない。/それゆえ、リクルーターは、詐欺師の息子も悪くないと考えたのだろう。同時に冷徹な情報官僚としての直観で、ル・カレは父親から受け継いだ無頼の血を巧みに隠し、正気という仮面をかぶる術を身に着けていると見抜いたのだった。そうやって現実の社会と折り合いをつける資質は一級のスパイとなるにふさわしいと判断したのだった」
評者も外交官時代に、イスラエルやロシアの優れたインテリジェンス・オフィサーを見てきた。その中には、いわゆるスパイ活動、すなわち非合法な情報収集活動や工作活動で大きな成果をあげた人もいた。こういう人たちは、いずれも人を惹きつける話術を身につけていた。詐欺師になっても間違いなく成功するような人たちだった。
外から見ると似たような技法を用いるインテリジェンス・オフィサーと詐欺師だが、両者の国家観は著しく異なる。詐欺師にとって重要なのは自分の利益で、国家に価値をおかない。これに対して、インテリジェンス・オフィサーは、国益を強調する政治家や外交官を覚めた目で眺めているが、心の底には静かな愛国心がある。これは正義感とは異なる。仮に自分の所属する国家が間違っている場合でも、その国家に対して忠実な生き方を選択するというのがインテリジェンス・オフィサーの掟なのである。
この掟がわからない純粋な正義感を持つ人間がインテリジェンス活動に従事すると事故が起きる。その例が元CIA(米中央情報局)職員のエドワード・スノーデンによるNSA(米国家安全保障局)が秘密裏に傍受した通信情報の漏えい事件だ。
「エドワード・スノーデンは国家が個人の暮らしの領域に介入してくることを何より嫌うサイバー・リバタリアンである。そのスノーデンが、国家の権威をどの国より重んじ、時に強権をもって個人の生活に介入するロシアのプーチン政権の懐に逃げ込んだことは、何という皮肉だろうか」と手嶋氏は指摘する。
インテリジェンスの主体はあくまでも国家だ。スノーデンは国家の軛(くびき)を逃れ、自由人になることができると考えたのだろうが、米国という国家を裏切ったものは他の国家によって庇護される以外に生きる道はないのである。元KGB(ソ連国家保安委員会)の将校だったプーチン大統領は、一度インテリジェンス機関で勤務した者は生涯、国家にために仕えるという掟に従わなくてはならないと考えている。ロシアのインテリジェンス機関はスノーデンを利用するが決して信頼しない。