手嶋龍一

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ノンフィクション作品

インテリジェンスで世界の「解」を導く―手嶋龍一「汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師」

 複雑に見える数式が、まるで一つの解で、あっさり解けてしまうように、インテリジェンスという「解」によって複雑怪奇な世界の謎を、あっさりと腑に落ちる回答を導いてしまう。そんな手品のような本である。

 いま世界が最も知りたい米大統領選トランプの勝利の原因。その驚天動地の事態にも、手嶋龍一氏は新刊「汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師」(マガジンハウス)のなかで、「パナマ文書」の流出やウィキリークスによる米機密文書の流出という事案を通し、クリアな絵図を描き出す。
 プア・ホワイトと呼ばれる白人の貧困層が、「パナマ文書」の主役である法律事務所モサック・フォンセカの関与で描かれた富裕層・支配層への怒りをトランプの主張によって呼び起こされ、トランプ支持に流れ込んだ。そして、本命だったヒラリー・クリントンを最後まで悩ませたメールの私的流用問題でも、その流出の元は「ウィキリークス」事件がきっかけだった。
 エドワード・スノーデンによる米政府盗聴の暴露事件を含め、この数年という短期間にことごとく起きている世界的な情報流出事件が、米大統領選の歴史的大番狂わせ(Big upset)の脚本だった、というのが、手嶋氏の見立てである。

 少なくとも、日本のメディアでは、そんなインテリジェンスという切り口から、トランプ当選を洗い直す識見に出会うことはなかった。
 スノーデン、アサンジ、そして、パナマ文書を流出された人物たちは、ある部分で、情報の独占者たろうとする米国政府や、世界を牛耳る支配層への異議申し立てというアナーキーな主張をはらんだ情報テロリストである。しかし、結果として、その行為が、直接、間接的に、米国有数の成功者であり、経済人であるトランプを大統領に押し上げることにつながろうとは・・・。

 「アサンジもパナマ文書の情報源も、自分の行動が、トランプ当選を導くなどということは、夢にも思わなかったでしょう。まったくなんという21世紀の矛盾でしょうか」
 手嶋氏は、こう語って、天を仰いだ。
 本書は「主戦場をサイバースペースに移しつつある」という結論を提示しながらも、そのシンパシーは、アサンジらハッカーたちに注がれることはない。手嶋氏の賞賛は19世紀という「グレートゲーム」の時代に世界を自在に飛び回った英国紳士のスパイたちに送られる。スパイ偉人伝である本書の核心部分も、「裏切り者」かつ「詐欺師」でもあった歴史的スパイたちへの微に入る描写にある。

 その白眉は、リヒャルト・ゾルゲを取り上げた「銀座を愛したスパイ」の章であろう。ゾルゲの名は知られているが、まさかこれほど魅力的な人物とは、この書を読むまで、私には想像がつかなかった。この文章は、多くの女性たちを引きつけ、ソ連、ドイツ、日本の間で自在に情報という美食を食べ尽くし、協力者の女性たちを守りながら、潔く刑場の露と消えたゾルゲに対する最大の賛辞ではないだろうか。

 本書に登場する多くのスパイたちは、超人的能力も人間的魅力も兼ね備えた一流の人物たちだ。そして、時にジャーナリストの顔を持っている。ゾルゲしかり、キム・フィルビーしかり。では、ジャーナリストとスパイとの間の共通項と相違点はどこにあるのか。
 手嶋氏はスパイ小説の登場人物の発言を引きながら、「情報を集める点ではスパイもジャーナリストも変わらない。小説では『誰からお金をもらうかの違い』と述べられていますが、要するに、スパイのように国家に忠誠を誓うか、数多くの読者に忠誠を誓うかの違いです」と明快に語った。
 もし手嶋氏が19世紀のグレートゲームの時代に生きていたら、小説のモデルとなるような、ジャーナリストの顔をもちつつ、スパイマスターとしても活躍する人物になっていたかもしれない。そんな心地よい想像まで伴う読後感を、多くの読者は本書から抱くのではないだろうか。

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