手嶋龍一

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ノンフィクション作品

ブラック・スワン降臨

『波』12月号掲載 阿部重夫著

 たった一片のピースから、ジグソーパズルの全絵図面を復元できるか。
 不可能? いや、それが手嶋龍一氏の言う「インテリジェンス」――錯綜する情報の分厚いヴェールからコアを透視する行為の本質だと思える。
 漫然と集積される「インフォメーション」からそれは抽出できない。そこで必要になるのは、内部情報を暴くスパイまたは告発者の存在か、物事の本質を見抜く勘か、脳細胞に蓄えた過去の記憶か、さんざん苦汁をなめた経験か、なにかこの世のものならぬ霊感か。
 いずれでもあっていずれでもない。手嶋氏を衝き動かしているのも、この内在する物語を語ろうとする優れたナレーターの本能だろう。
 本書は巻頭、いきなりアンドリューズ空軍基地内のゴルフ場に読者を連れていく。米大統領の閑暇を盗んだ気晴らしに見せかけてハーフで切り上げたバラク・オバマのプレーが、実はパキスタンで進行中のビンラディン急襲作戦の目くらましだったことが明らかになる。
 九・一一テロ以来、十年目にして米国がこの宿敵を仕留めたこと自体は、すでにさんざん報じられてきた。手嶋氏の眼目は、戦略的にも経済的にも莫大な支援を注ぎ込んだパキスタンに事前通告もなく、国家主権を踏みにじってその領土で「復讐」の実行を命じた決断の物語を語ることにある。
 手嶋氏の意図は最後に明らかになる。東日本大震災の翌早朝、首相官邸からヘリで飛び立ち、東京電力福島第一原発に降り立って、危機の陣頭に立つパフォーマンスを演じながら、海水注入に手間取って炉心溶融を起こした菅直人総理を対置させているからだ。
 そう、決断の前に万全の情報などほとんどない。すべては一回性の出来事で、「想定外」といった言い訳はありえない。手嶋氏が言う「インテリジェンス・サイクル」とは、情報の不完全性のなかで、なおジグソーの全絵図面を透視して決断する方法論である。
 それはひとえに、瞬時に物語を構築する能力があるか否かに帰する。菅総理の無残はそうした能力の欠如に由来していた。しかし憂うべきは、なすすべもなかった首相官邸および霞が関のガバナンス(統治)の根源的かつ日常的な退廃にある。
 本書は書下しであるが、そのエピソードの多くは、私が創刊した月刊誌FACTAで六年近く前に始めた「手嶋龍一式intelligence」の連載コラムでカバーしている。
「インテリジェンス」は古代文字の解読に似ている。ジグソーのピースそれぞれの形状や色彩を記憶して、ひとつひとつ嵌めていく忍耐の作業。やがて浮かび上がる壮大な絵図面にひそやかに覚える喜び。大英博物館でロゼッタ・ストーンを見るとき、いつもそう思う。
 だが、あの暗色の花崗閃緑岩に刻まれた碑文、エジプトの神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)とギリシャ文字の同文が並んでいるという、奇跡のような僥倖がインテリジェンスには期待できない。
 手元にあるのは、ギリシャ語でいう ἅπαξ λεγόμενον(hapax legomenon =一回限りの言葉)だけなのだ。この一片だけのピースで、あなたはヒエログリフを解読したシャンポリオンになれるか。
 インテリジェンスには深い思索がなければならない。黒い森に切り拓かれたLichtung(間伐地)には、lumen naturale(自然の光)が木洩れ日のように差す。けれども、苔むしたままのロゼッタ・ストーンが、人知れず草陰で沈黙していても不思議ではない。
 hapax legomenonにはしかし、別の攻略法がある。
 シェイクスピアを例にあげよう。全作品八十八万語のうち、固有名詞を含めて使われた語彙は二万九千語と驚くべき言語の魔術師で、だからこそというべきか、一度しか使われなかった言葉がある。「恋の骨折り損」第五幕第一場のHonorificabilitudinitatibus。小田島雄志訳は、原語のままジュゲムの呪文にしている。
 しかし、二度出現する単語、三度、四度……と並べていくと、出現頻度がk番目の単語が、全体の単語数のk分の1を占めるという自然言語の確率分布「ゼフの法則」に近づく。
 これこそ「天の秘鑰」なのだ。
 ビンラディンの隠れ家が突き止められたのは、クーリエ役の男の追跡に成功したからだ。全世界の通信の奔流に聴診器をあて、天文学的な頻度の交信から一人の男のキーワードを割り出すには、確率分布の統計数理を使って一回性の壁を破ったに違いない。
 アルゴリズムの手品? いや、グーグルなどの検索エンジンは誰もが日々体験していることだ。あれはインターネットと同じく、軍事技術の転用なのだ。
 手嶋氏の「物語」の垂鉛はそこまで届いている。

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