外交敗戦 ~130億ドルは砂漠に消えた~
改訂版新潮文庫 2006年6月30日発売
1991年の湾岸戦争に遭遇した日本の外交が、なすすべもないまま迷走するさまを描いた外交ドキュメンタリー。
(『一九九一年日本の敗北』の改定文庫版)
新規書き下ろし「改訂版・前書き」
北国の S さんへ
北の街ではライラックの蕾がふくらみはじめた頃でしょうか。先日は札幌の講演会に来ていただきありがとう。その折、あなたから手渡された『湾岸戦争』と題する卒業論文をさっそく読んでみました。イラク軍のクウェート侵攻という事態に遭遇して、おろおろと迷走する日本の姿が冷静な筆致で記されており、学部生とは思えぬ出来栄えでした。当時、あなたはまだ小学生だったのですね。砂漠の地で熱戦が勃発してはや十数年の歳月が飛び去っていったことに慄然としました。「サダム・フセイン軍がクウェート国境を侵した」という第一報に接した私は、あの日の深夜、ワシントン郊外のキャナル・ロードを支局へ車を駆っていました。隣の車窓には国防総省高官の横顔が垣間見えました。彼らにとっても不意打ちだったのでしょう。
「あの戦争がその後の日本外交にとって大きな転換点になったことは知っています。しかしながら、日本がなぜ国際社会からあれほどに蔑みを受けなければならなかったのかを知る機会を私たちには与えられてきませんでした」
あなたは湾岸戦争を論文のテーマに選んだ動機をそう話してくれました。執筆に際して引用した文献やインタビュー記事は、いずれも公正でよくバランスが取れています。しかしながら公にされた文書だけを頼りに、当時の日本の実像を描き出すのはどれほど難しかったことか。それはあなたが学生であったからではなく、ほんとうに重大な出来事に限って文書に綴られていないことがしばしばだからです。外交を国民から委ねられたはずの者が自らの責任を覆い隠すために記録を残そうとしない―。そうした日本の現状への憤りが私に近著『ウルトラ・ダラー』の筆を執らせたのでした。これを機に、湾岸戦争の全過程を現場で取材したドキュメントをいまいちど公にしてほしいという要望が若い方々を中心に数多く寄せられました。このため、旧著『一九九一年 日本の敗北』(新潮社刊)を表題も新たに刊行し、あの無惨な日々をあなたのような若い方々に正確に知ってもらいたいと考えました。
湾岸戦争に際して日本の知識人の多くは、自衛隊を海外に派兵することに反対しました。これに対して私は、独立国の主権を踏みにじった不正義を目の当たりにしながら為すところがないなら、日本という国は国際社会から蔑みを受けてしまうと指摘しました。日本に向けられる冷ややかな眼差しこそが、不健全で危険なナショナリズムの芽を育むのです。しかし、国連の平和維持活動であれ、自衛隊の海外派遣は軍事大国化を招いてしまうという議論がなお優勢でした。当時の外務次官すらそうした論者のひとりでした。その同じひとがいま、自衛隊のより積極的な活用をと提唱しています。こう述べることで湾岸戦争時の自分の足跡を消し去ろうとしているかに見えます。
「あなたは現場に在って一連の出来事を目撃していながら、このノンフィクション作品をなぜ一人称で記述しようとしなかったのですか」
こうしたSさんの疑問は頷けますが、事件の渦中に身を置いていたがゆえに事態を等身大に見ることがかえって難しいのではないでしょうか。湾岸戦争の嵐に翻弄された日本の姿はそれほどに捉えがたかったのです。
力の大国アメリカを誤らせたベトナム戦争とは何だったのかを複眼的に検証する試みに加わったことがありました。現代史の碩学アーネスト・メイ教授が、アメリカ、ベトナム双方の視角からトンキン湾事件などを洗い直したのでした。そのときも、サイゴン陥落の直後に生まれたという若い学生が加わりました。彼らは、南の解放勢力は北の政権から自立しているというキャンペーンに与せず、その一方で南の政権は自由な体制の砦だという冷戦の論理からも解き放たれていました。事態を突き放して冷徹に見るという、遅れてきた青年のメリットを存分に身につけていたわけです。
あなたは論文の結語のなかで
「日本が日米の安全保障の盟約に身を委ねたまま、国際社会の秩序を担う志をいつしか摩滅させ、憲法を何事かを回避する盾にしてしまったのではないか」
と述べていました。戦後日本が抱えていた負の本質を衝いて誤っていないと思います。しかし、過去の教訓だけに拠って将来の針路を定めることはできません。今度のイラク戦争で日本は湾岸戦争の轍は踏むまいと対米協力に努めましたが、それが盟友アメリカを誤らせた側面をなしとしません。それだけに、あなた方のような若い世代に課せられた責務はずっしりと重いのです。この『外交敗戦』がこれからの日本の行く手を考えるささやかな指針になるなら望外の喜びです。