
スパイたちの遺灰
スパイとは此岸と彼岸を往き来するダブル・エージェントだ――諜報世界のそんな本質を体現していたのが20世紀最高の諜者リヒャルト・ゾルゲだった。帝政ロシア領のバクーでドイツ人を父にロシア人を母に生を享けたゾルゲは、戦争と革命の時代を駆け抜けて赤軍の情報戦士となり、生涯を共産主義に殉じたと描かれてきた。だが、血も凍るスターリンの粛清は彼の身辺にも及び、クレムリンへの忠誠は揺らいでいった。ナチス党員証を携えた特派員を装って“ゾルゲ諜報網”を東京に築きあげ、情報源は近衛内閣の中枢にも及んだ。日本政府と軍の動向を精緻に掴み、駐日ドイツ大使にとって得がたい触覚となった。その見返りに大使館の機密電にも自在にアクセスし、「日本軍は南進する」とクレムリンに打電して誤らなかった。だがスターリンは容易に信じない。ゾルゲこそ“モスクワのエージェント”にして“ベルリンの諜者”だったのである。
本書の主人公スカーレットは、ゾルゲの処刑を見届けるように諜報の世界に入り、英国秘密情報部・MI6のロシア担当として赤軍情報部やKGBを主敵とした。伝説の女性スパイは主要な対ソ情報戦に携わりながら、人生の黄昏を迎えて内面には微妙な化学変化が萌し始める。国家の禁を犯して闇の作戦の全貌を記した手記を公刊しようと思い立つ。そして冴えない諜報史の学者を誘き出し、文書の真贋を鑑定させて出版する戦いに挑んでいく。原題の「スカーレット文書」こそ、老情報大国を破砕する水爆級の代物だった。それゆえ防諜を担うMI5は死力を尽くして文書の所在を探り、老いた情報戦士の前に立ちはだかっていく。
連合国軍の上陸地点はノルマンディーに非ず、パド・カレなり――老宰相チャーチルは、そうヒトラーに信じ込ませる「ミンスミート作戦」の発動を命じた。偽の機密書類を身に帯びた英国将校の溺死体をスペインに漂着させた。だが、赫々たる戦果をあげた秘密情報部も、キム・フィルビーをはじめ「ケンブリッジ・ファイブ」と呼ばれる裏切り者を胚胎させ、煉獄に墜ちていった。その傷もようやく癒えつつあった冷戦の終焉期、クレムリンが放った未知の“モグラ”の存在を記した「ミトロヒン文書」が持ち込まれた。更なる裏切りの風土を暴き出す「スカーレット文書」だけは何としても世に出してはならない。MI5の首脳陣は全力で老女に挑みかかる。
それにしてもスカーレットを取り巻くインテリジェンス・オフィサーたちの何と魅力的なことだろう。「人生を豊かにしたければスパイを友にしろ」と言う。オックスフォード・シャーにある英国外交官のマナーハウスに招かれたことがある。ディナーテーブルの評者の隣は、鳶色の眼を輝かせ、淡いピンクのサマードレスを着た老齢のレディだった。彼女こそかつてブレッチリ―パークに徴集され、エニグマ暗号の解読に挑んだチームの一員だった。戦後も対ソ情報戦の一端を担い、名もなきスパイたちの名を「ミーシャ」「アリョ―シャ」と庭の薔薇に冠して慈しんでいた。本書に登場するオックスフォード大学のロシア文学の泰斗で、スカーレットのおばマリア・カザコワにも影の世界を生きた者の風貌が滲んでいる。この物語に広がる後景には堅牢な史実が巧みに配されている。
魅惑の主役スカーレットの精神世界にこれ以上踏み込んでしまえば、彼女の素顔を漏らしたいという誘惑に抗えなくなる。ここらで筆を擱き、あとは読者自身による“不思議の国”への単独行に委ねたいと思う。



