手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

『ソーニャ、ゾルゲが愛した工作員』

歴史を動かした女性スパイ

 諜報の世界を描いた作品群ではいま、主人公の多くが女性である。ノンフィクションか、小説かを問わず、女性スパイの活躍は目をみはるばかりだ。ラーラ・プレスコット著『あの本は読まれているか』はそんな新潮流を象徴する小説と言っていい。冷戦の初期、CAIのタイピストとして雇われた女性がやがて工作員となって一線に配される。そして、体制批判の書『ドクトル・ジバゴ』をソ連国内に密かに流布させる実話に基づく物語である。テレビドラマ「キリング・イヴ」も英ロの女性諜報員が死闘を繰り広げる傑作シリーズだ。男が主役だった諜報界で逼塞していた女たちがこれまでの無念を晴らすかにように躍動している。

 『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』など大作を次々に著し、“諜報界の語り部”となったベン・マッキンタイアーの最新作『ソーニャ、ゾルゲが愛した工作員』の主人公も赤軍の女性諜報員だ。国際諜報都市、上海で“20世紀最高のスパイ”ゾルゲに見いだされた暗号名「ソーニャ」。彼女はスターリン支配下の煉獄を生き延び、情報戦が熾烈に戦われたスイスに派遣されてヒトラー暗殺計画に携わる。やがて英国男性と“偽装結婚”し、英国籍を手に入れて潜入を試みる。

 インテリジェンスを武器にヒトラーと対峙する情報大国は、独ソのスパイたちが英国内に浸透するのを阻むため、MI5(情報局保安部)が鉄壁の防諜網を築いていた。

 「ソーニャ」の夫はスペイン義勇軍として戦った前歴を知られ入国を拒まれてしまう。ドイツ系ユダヤ人の妻だけにビザが発給されたのだった。

 「この夫婦のうち、本当に疑いの目をむけるべきは妻の方であったが、MI5は、当時の根強い性差別意識を反映して、夫の方を主たる潜在的脅威と見なしていた」

 ソーニャはゾルゲと肩を並べる超一級のスパイだったが、一方で良き妻であり、心優しき母だったがゆえに、防諜当局の厳しい目を逃れることができたと著者は喝破している。

 折しも英国はナチス・ドイツに先んじて核開発を極秘裏に進めていた。彼女は共産主義者にして天才物理学者フックスの運用を委ねられ、原爆製造の最高機密を入手してスターリンに送り続けた。「ソーニャ」なくしてソ連があれほど早く原爆を手にすることは不可能だったろう。歴史を動かした伝説のスパイ――彼女こそまさしく偉大な存在だったと膨大な諜報史料を駆使して描いている。

 「女は政治的な知識に乏しく、重要な情報を彼女たちから得たことなどない」――ゾルゲは捜査当局の尋問にそう応じたと伝えられる。実際には「ソーニャ」、延安に潜入したアグネス・スメドレー、そして日本でゾルゲを援けた多くの女性たちから貴重なインテリジェンスを得ていた。だが、ゾルゲは彼女たちを守るため敢えてそう供述したのだった。日本の捜査当局もそうした機微を薄々承知しながら、ゾルゲと一種の司法取引をして“ゾルゲの女たち“を本格的に取り調べようとはしなかった。

 「ゾルゲは、恋人としてはまったく不実な男だったが、彼なりに最後まで誠意を尽くしたのだった」
 「ソーニャ」に関わった男たちは皆、どんな苛烈な取り調べにも彼女の素顔が露見する供述を決してしようとしなかった。「ソーニャ」が恋をし、結婚し、ともに暮らした男たちは、それぞれの方法で彼女への信義を貫き通したのだった。「ソーニャ」こそ男たちに支えられて、スパイの最高峰として聳える立つ女性だった。

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