『最悪の予感 パンデミックとの戦い』 マイケル・ルイス著
中山宥訳 早川書房
迫る災厄 先駆者たちのドラマ
新型コロナウイルスが牙を剥き、最大の痛打を浴びせたのは、アメリカ合衆国だった。これまでに奪われた命は70万人を超えている。惨劇の規模でもまさしく超大国だった。
だが、この国は、決して災厄への備えを怠っていたわけではない。まだ見ぬ新興感染症に挑もうとした先駆者たちがいたのである。『マネー・ボール』、『世紀の空売り』などノンフィクションの力作を次々にものしてきたマイケル・ルイスが、先駆者たちの群像ドラマを活写したのだから面白くないわけがない。訳文も流れるような出来栄えで翻訳とは思えない。
パンデミックに対して、どの国が、どれほどの備えができているか。武漢発のウイルスが出現する直前、権威ある団体が行った調査が本書の冒頭で紹介されている。ランキングの第一位に輝いたのはアメリカだった。
「アメリカはパンデミック対策における『テキサス大学チーム』だった」
著者のルイスは、アメリカン・フットボールの開幕前の予測になぞらえ、皮肉な筆致でそう指摘している。だが、日本の読者は真に受けない方がいい。ワシントン特派員として、アトランタにあるCDC(疾病対策センター)を訪れ、米海軍の病院船に乗り、国土安全保障省のバイオシールズ局を取材した経験から言えば、そんなアメリカさえ新型コロナウイルスに敗れ去ったと受け取るべきだろう。
『最悪の予感』には、カリフォルニアの保健衛生官をはじめ、たまらなく魅力的な人物が登場する。ラジーヴ・ヴェンカヤもそのひとりだ。父親の勧めで医者になったのだが、もっと大きな仕事がしたくて、35歳の時にホワイトハウスのフェロー制度に応募して、ブッシュ政権の中枢に迷い込んだ。ヴェヤンカの運命を変えたのは、大統領の夏の休暇だった。ジョージ・W・ブッシュは、歴史学者のジョン・バリーが著した『グレート・インフルエンザ』を読んで感銘を受けた。5千万人もの命を奪ったスペイン風邪を扱ったベストセラーである。
休暇から戻ってきた大統領は会議を主宰し、早急にパンデミック対策を策定するよう檄を飛ばした。その会議の席にいたヴェヤンカに政策起案の大役が突如降ってきた。両親が住むオハイオの家の地下室で書きあげたドラフトは、たちまち大統領の裁可を受けた。かくしてパンデミック対策を統御する司令塔が生まれ、総額70億ドルもの予算が計上されたのである。だが、この「ヴェヤンカの城」も、トランプ時代になると空き家同然に変わり果て、あえなく落城してしまう。
これほどの人材や組織を擁していながら、なぜアメリカは敗れ去ったのか。この作品が凡百のコロナ本が溢れるなかで、ひときわ高く聳え立っているのは、災厄の迫りくる前夜の模様を生々しく描き、先達のドラマを通じて忍び寄るコロナ禍の序曲を描き切ったことにある。
ジョージ・W・ブッシュは、生物兵器の影に怯えてイラク戦争を始め、ハリケーン・カトリーナに痛めつけられた。そんな日々の苦難のなかで、新たな使命に思いを巡らしていたのだろう。そうしたさなかに一冊のノンフィクションに出遭い、それに触発されてパンデミックへの備えこそ、最後の責務と思い至ったのだ。さして知的と思われていなかったひとが夏の休暇で読書に耽り、新たな政権の使命に思いを致す。マイケル・ルイスは、超大国の敗北記として本書を綴ったのだが、「アベノマスク」を生んだニッポンの惨状を思うと本書は別の読まれ方がされていい。