手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

量子暗号が世界を支配する

 われわれの頭上に「墨子」がいて、情報世界の覇者として君臨している――その事実をどれだけのひとが知っているだろう。2016年8月、中国は量子科学衛星「墨子」を世界に先駆けて打ち上げた。最先端の量子暗号システムを備えて盗聴・傍受を封じ、軍事・金融分野での極秘通信を可能とした。まさしく「21世紀のスプートニック・ショック」だった。冷戦期に人工衛星の打ち上げでソ連に先んじられたアメリカは直ちに反転攻勢に出た。だが「トランプのアメリカ」は手を拱いて中国の独走を許したままだ。

 宇宙法の第一人者、青木節子は、『中国が宇宙を支配する日』で、危機がいかに切迫しているか、個々の事象を読み解いて問題の核心を抉ってみせる。中国の攻勢は長期の戦略に基づくものであり、宇宙分野で中国の優位はわれわれの想定を上回ると断じている。安手の反中感情を排して、無類の正確さで驚くべき現況を活写してみせた。最初の論考が多言語で国際社会に発信される現場に立ち会った者のひとりとして、若い世代にぜひ読んでもらいたい。

 宇宙後進国だった中国は八〇年代後半、三つの宇宙協定を米国と結んでロケット関連の技術を掠め取り、核弾頭の搭載技術も蓄積した。その一方でアジア、南米、アフリカの途上国に基地局を建設し衛星の打ち上げに協力し、メンテナンスまで請け負って中国の衛星システムにそっくり組み込んでしまった。いまや「墨子」は各国の地上基地を結んで「宇宙版一帯一路」の中核となっている。

 さらに中国主導の国際機関「アジア太平洋宇宙協力機構」を創り、ストーカー衛星を飛ばして米国の衛星を監視し、宇宙空間での衛星攻撃能力を強化している。台湾海峡の有事に備えた中国の電子戦能力は飛躍的に高まりつつある。だが、そんな現実にニッポンはあまりに鈍感だと本書を手にしたひとは頷くだろう。

 軍事クーデターがミャンマーで起き、インドシナ半島で中国の影響がさらに強まり、カンボジアも例外ではない。この国の中央銀行が世界に先駆けデジタル通貨を流通させた。

 日本のスタートアップ企業「ソラミツ」が、最先端の暗号システムを駆使してブロックチェーンを提供し、デジタル通貨「バコン」を昨年一〇月誕生させた。デジタル人民元の流通を急ぐ中国はさぞかし悔しがったことだろう。

 フィンテックと呼ばれる金融技術のプロ集団が興した小さな企業の名をタイトルに冠したのが『ソラミツ』。相次ぐ戦乱で疲弊した小国の挑戦を支える役割を強豪と競って手にした会社のドキュメントである。溢れるアイディアと意欲さえあれば、小さき者も巨人と戦える――ニッポンを元気づけてくれる奮闘記だ。

 『世界を変えた14の密約』は、電子決済や高度な暗号システムが誕生した瞬間に遡り、いまや地球上から現金が駆逐されつつある様を伝えている。その果てにスェーデンの若者はいまや紙幣にバイ菌がついていると恐れ、現金より電子決済に引き寄せられているという。

 「デジタル革命の本当の成功はわたしたちにそう信じさせたことだ」

 コロナ禍は現金を決済の主座から引きずり降ろす強力な役割を果たすことになるだろう。

 熊倉功夫は『茶の湯』で濃茶の廻しのみがいつ始まったのかを考察し、コロナ時代を生きるわれわれに多くのことを教えてくれる。

 「茶にも、煙草に劣らぬ覚醒作用がある。それを密室に相当する茶室ですすり合う異様さこそ、下剋上の時代にふさわしい儀礼ではなかったか」

 コロナ禍に遭遇して密を避けることが社会の大義になってしまった。だが、太古から人類が続けてきた共同飲食という営みを茶の湯の様式として定着させたのは利休だった。「恐るべき精神的緊張を強いる廻しのみ」を茶の湯に取り入れたのは確かに卓抜な着想だった。利休がコロナの時代に生きていればいかなる秘儀を授けてくれただろうか。

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