『中国が宇宙を支配する日』 青木節子 (著) 新潮新書
量子科学衛星の衝撃と脅威
安全保障上の脅威は、音もなく兆し始める。後から振り返れば、あの時が――と思うのだが、常の暮らしでは気づかない。2016年8月、中国が量子科学衛星「墨子」を打ち上げた時がまさしくそうだった。本書の著者、青木節子は、非戦と博愛の思想を掲げ、光学の科学者でもあった「墨子」の名を冠した新興の宇宙大国の狙いを精緻に言い当てて誤らなかった。
我々の頭上500キロの軌道上に打ち上げられた最新鋭の衛星。それは光の粒子と量子が持つ特異な性質を利用した超高度な暗号キーを使った通信システムを内蔵していた。衛星と地上基地を結んで伝送される情報を盗聴や傍受からぴたりと封じ、軍事から金融まで幅広い分野に使える優れものだった。
冷たい戦争の時代、ソ連は人工衛星「スプートニク」を米国に一歩先んじて打ち上げた。「墨子」の打ち上げはこの時の衝撃を想起させ「21世紀のスプートニク・ショック」となったと著者は指摘する。
「量子科学衛星の重要性を知る米国の宇宙・防衛関係者の不気味なほどの沈黙は、むしろいかに大きなショックであったかを雄弁に物語っている」
3年前の秋、ワシントンに滞在していた評者のもとに青木教授から一通のメールが届いた。その行間には、宇宙で繰り広げられる国際競争で劣後するニッポンの現状への危機感が滲んでいた。「研究論文の枠を超えて、一般の読者に向けた著作を」と書き送った。本書は、宇宙法の第一人者であり、内閣府で宇宙政策委員も務める著者が、遥か天空で生起しつつある大国のせめぎ合いを活写した警世の書なのである。
中国はいまや衛星の打ち上げ回数で米国と肩を並べ、月の裏側や火星にも探査機を送って宇宙資源の獲得にも布石を打ちつつある。宇宙という新たな主戦場で着々と実力を蓄えているのだが、結果的にこの国をフロントランナーに押し出したのは米国だった。
米国は八〇年代の後半、中国と3つの宇宙協定を結び、衛星関連の最新技術を供与した。こうして中国が手に入れた新鋭技術のなかに、ロケットの先端部に衛星を搭載する「フェアリング」と呼ばれる接合技術があった。米国との協定には衛星技術の盗用を防ぐ監視措置が含まれていた。しかし中国は協定を守っているよう装いながら、核弾頭をミサイルに装着する技術を着々と手に入れていった。
米国は監視措置を設けながら、なぜ中国に軍事技術を掠めとられてしまったのか。本書は下院の調査報告を引いて、輸出管理の現場にかなりの緩みや堕落があったと指摘している。90年代のアメリカは、中国を非同盟の友好国として扱い、中国もやがて民主主義の仲間入りをするはずと信じていた。いかにもアメリカらしい楽観主義に憑りつかれていたのだ。
その一方で当の中国は、アジア、南米、アフリカの途上国に衛星基地局を建設し、衛星の打ち上げも請け負って、途上国を中国独自の衛星システムに組み込んでいった。いまや量子科学衛星「墨子」は、各国の地上基地を結んで宇宙版の「一帯一路」構想の中核を担っている。
「習近平の中国」は、長期の構想を練りつつ、米国から軍事技術を引き出し、量子暗号システムを搭載した科学衛星を飛ばし、アメリカ主導の方位測定システムGPSに代わって「北斗」を世界標準に仕立て上げようとしている。いまのニッポンにも、中国に対峙する戦略的思考こそが求められている――著者はそう考えて本書の筆を執ったのだろう。これに応えるのはこの国の若い世代の責務だろう。