手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「今月買った本」スーパー大陸のアメリカ離れ

 海を隔ててニッポンから遥かに望む巨大な大陸がいま、どのように変貌しつつあるのか――。『スーパー大陸 ユーラシア統合の地政学』は、その素顔を活写して鮮烈だ。本来なら絶好の観測地点にいる日本の研究者が担うべき仕事なのだが、生涯を通じて東アジアと向き合ってきたケント・カルダー教授が知力の限りを尽くして力作をものしてくれた。

 歴史上、「スーパー大陸」が初めて登場したのは北アメリカだった。十九世紀後半に大陸横断鉄道を完成させ、二十世紀初めにはパナマ運河を開通させて、大西洋と太平洋を「結合」させ、真の意味で合衆国の統合を成し遂げた。「アメリカの世紀」を招来する礎が整ったのである。

 そしていま、習近平の中国は「一帯一路構想」を打ち上げ、欧州をも惹きつけてユーラシアの大地を「統合」し、新たな「スーパー大陸」を誕生させつつある。鄧小平が推進した「四つの現代化」路線の延長上に、陸と海と氷のシルクロードを張り巡らし「ユーラシアの世紀」を現実のものにしようとしている。

 カルダー教授の眼差しは単に現代中国に向いているのではない。ソ連が崩壊し、リーマン・ショックが米国依存に警鐘を鳴らし、ウクライナ危機が中ロ両大国を「新協商」に向かわせたことで「スーパー大陸」の潮流に一段と弾みがついた、と堅牢な論拠を示して説いている。

 加えて「トランプの出現」が米国の対欧州、東アジア同盟を劣化させ、「スーパー大陸」のアメリカ離れを加速させていると断じている。

 「攻撃的な米国の単独主義は、皮肉にも危機を生み出し、ドルを致命的に弱体化させるような制度的な進展を引き起こす触媒となるかもしれない」

 トランプ再選の是非を問う戦いを前に東アジア研究の第一人者がこの書を世に問うた真意は明らかだろう。民主党内の混迷に助けられて異形の大統領があと四年ホワイトハウスに居座れば、民主主義と自由の旗を掲げてきたこの国は、世界の指導的な地位から滑り落ちるかもしれない――そんな危機感が本書の行間から滲んでいる。多くの人に薦めたい一冊だが、ごく普通の分量なのに価格は三八五〇円。出版不況で部数が限られ、単価が高くなっていると版元は嘆く。これでは知が疲弊してしまう。

 こうした出版界の苦境は名門といわれた版元を「嫌中」「嫌韓」を煽るヘイト本に走らせている。安易な黄禍論に手を伸ばすなら、『井上ひさし ベストエッセイ』に収録された「魯迅の講義ノート」を読んでほしい。若き日の魯迅が仙台の医学校に学んだ折、ひとりの教授から懇切な個人指導を受けた。魯迅自身も「藤野先生」に書き残している。故井上ひさしは仙台のデパートの展示会で藤野先生が朱筆でびっしりと書き込んだ魯迅のノートを目の当たりにした。

 魯迅は生涯を貫いて「一般論は危険だ」と警鐘を鳴らした。「日本人は狡猾だ」「中国人には国家の観念がない」といった偏見に囚われなかった人々が日中双方にいたのである。

 新型肺炎の広がりを受けて日本のメディアは「コロナ報道」一色に染まっている。新たに編まれた『開高健短編選』が冒頭に「パニック」を配したのは先見の明がある。日本列島に野ネズミが凶暴なまでに繁殖し、人々を恐怖に陥れる物語だ。ササが百二十年ごとに大量繁茂し、それを食べて野ネズミが異常に増殖する記事を開高は通勤電車でふと目にして筆を執ったという。不気味に増え続ける野ネズミとそれに翻弄される人間模様を活き活きと描き、戦後の文壇に痛打を浴びせたデビュー作だ。県庁山林課に勤める主人公は、忍び寄る危機を早くから警告したが、腐敗した役所は自己保身に汲々として一向に対策を打とうとしない。人間の社会は半世紀が経っても何も変わらないと嘆息してしまう。

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