「今月買った本」 危機のシグナルを探り当てる
あの冷たい戦争のさなか、幾多の米ソ核軍縮交渉に携わり、「核の時代の語り部」として名高いポール・ニッツェ翁に話を聞いたことがある。
「アメリカが真珠湾への奇襲を許したのは、日本海軍に睨みを効かせるべき太平洋の拠点に力の空白が生まれてしまったからだ」
南太平洋に浮かぶ要塞の島が米本土から孤立し、その抑止力に綻びが生じてしまった。その果てに山本五十六提督が指揮する空母機動部隊を真珠湾奇襲への誘惑に駆り立てていったという。
日本の陸海軍は、英・米・蘭の植民地を標的に襲いかかって戦端を開こうとしている――アメリカの統帥部はそう思い込んでいた。ロバータ・ウォルステッターは大著『パールハーバー 警告と決定』のなかで、かかる思い込みが「ノイズ」となって災いし、真珠湾への奇襲を窺わせる「シグナル」をかき消してしまったと独創的な知見を披露している。
ホノルル発の諜報電は、真珠湾の泊地を細かく区分けして米艦隊の動きを逐一東京に知らせていた。そして日米交渉が暗礁に乗りあげると、領事館の暗号装置を破壊せよと命じ、開戦に備えるよう訓令を発したのである。アメリカの諜報当局は、これら日本の外交暗号「マジック」などを次々に解読し、迫りくる危機の足音を察知していた。
だが、日本海軍の魚雷は水深が浅い真珠湾では使えず、艦載機も航続距離が短いため、真珠湾攻略は難しいと高度の防御態勢を敷こうとしなかった。情報の洪水のなかから危機を告げるシグナルを見分けるのは容易でなく、警告を生かして具体的な行動に出るのはさらに難しい。
二〇世紀が生んだ稀有な戦略理論家は、アメリカはなぜ真珠湾への襲撃を許したかを問い続けた。そして膨大な資料を精査して奇襲の全貌を明らかにし、米ソ核大国が対峙する恐怖の均衡を生きなければならない西側陣営にシグナルを的確に察知せよと警鐘を鳴らした。
名著の完全翻訳版がいま出版されたのも決して偶然ではない。東アジアを主戦場にした核戦争の足音が遠くに聞こえるいま、押し寄せる情報から危機のシグナルを探り当てる必要はいっそう高まっている。「ビッグ・データとAIの時代」にあっても、膨大なデータから貴重なシグナルを嗅ぎ分けるのは、人間の英知を置いて他にない。おびただしいデータから安易に推論を引き出すべからずという著者の戒めは優れて今日的なのである。
真珠湾奇襲の意図を秘匿するため、日本側は敢えてシグナルを偽装して流していた。『昭和史講義2』の「南部仏印進駐と関東軍特種演習」(森山優著)や『太平洋戦争 日本語諜報戦』(武田珂代子著)は、そうした情報戦の熾烈さを伝えて読みごたえがある。開戦直前、対ソ戦に備えて繰り広げられた関東軍の大演習は、米・英・ソの統帥部に一時、日本の陸軍は北進を決断したと確信させた。だが実際のところ、日本の統帥部は、南進か、北進かを決めかねていたのである。こうして決断を回避し、引き伸ばす東京の意図を読みかねて、ソ連も英米も揺れ続けた。それは結果的に各国の視線を南北の前線に釘付けにし、真珠湾奇襲への動きを覆い隠すことになったのである。
真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争は、広島、長崎への原爆投下で幕を降ろした。坂口安吾は「戦争に負けたから堕ちるのではない」といい、生身の人間ゆえに「堕ちる」と傲然と廃墟に立ってみせた。無頼の作家は、将棋の名人戦に事寄せて、「然り、亡ぶべきものが亡びる時代だ。形式が亡び、実質のみが、その実質の故に正しく評価されるために」と書き、戦後の日本は、実質を尊んで生き抜くべきだと説いた。昨今の将棋ブームを背景に、安吾の筆になる将棋と囲碁の観戦記を集めて『勝負師』として編まれ、上記の「散る日本」と題する文章もそこに収められている。安吾の筆遣いは明晰にして美しく、惚れ惚れしてしまう。