手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「今月買った本」 アジアの純真

 令和という新しい時代をワシントンD.C.で迎えた。思い起こせば、昭和が終わり、平成の幕があがった時もこの街に暮らしていた。平成時代のほぼ半分を海外で過ごしたことになる。バブルに沸いた世相も、長い低迷のトンネルも直に経験しなかった。そのせいか、この国の意外な素顔を描いた著作に心惹かれてきた。

 ロバート・キャンベルという類い稀な日本語の遣い手が筆を執った『井上陽水英訳詞集』は、「ニッポンのいま」を伝えてとりわけ鮮烈だ。若き日の彼は、那珂川沿いのラブホテルに泊まり、ネオン揺蕩(たゆた)う中洲を眺めながら、有線から流れてくる陽水の「リバーサイドホテル」に聴き入ったという。

 「サングラスで目を隠した陽水さんの歌声は匂やかで享楽的なたたずまいを感じさせるものでした。そんな優美な声が路地を歩く人々やうろつくネコまでも撫でている。撫でながら、人生における運、不運を受け入れなさいよと諭しているように感じたのです」

 九州大学の教員だった八〇年代後半、博多は躍進する東アジアのハブに変貌しつつあり、「九州共和国の首都のようになった時期」だったと書いている。この地に生まれた陽水が「アジアの純真」という曲を手がけたのは決して偶然ではないだろう。北京、ベルリン、ダブリン、リベリア――で始まるあの特異な詞は、陽水の世界がニッポンをあっさりと乗り超え飛翔していく軌跡を窺わせる。

 ロバート・キャンベルは令和の典拠について意見を求められ「国書か漢籍かということはどうでもよい」と切って捨てている。国を超えて共有される言葉の力、イメージを喚起する元号こそ重要だとして、北東アジア文化圏で育まれる情操の世界とつながることこそ大切だと述べている。ああ、これこそ「アジアの純真」と快哉を叫んだのは僕だけではないだろう。

 『岸辺のアルバム』は、昭和期のテレビ・ドラマの最高傑作としていまも語り継がれている。喫茶店で竹脇無我が人妻役の八千草薫に低く澄んだ声で語りかけるシーンはいまも鮮明に憶えている。山田太一の脚本による作品だが、これに先立って新聞小説として連載されたことは不覚にも知らなかった。新装版が出たのを機に読んでみたが、小説もドラマに引けをとらない名編だった。

 時代設定は昭和なのだが、物語を貫く喪失感は、紛れもなく「失われた三十年」の平成を見事に予見している。ホームドラマの意匠を借りながら、マイホームの極北にある光景を描いて余すところがない。

 昭和の後半から平成にかけてのニッポンは、幸いにも戦争に巻き込まれなかった。だが、日本列島の外では、朝鮮半島や台湾海峡で砲弾が飛び交い、中国では文革の嵐が吹き荒れていた。ひとりニッポンだけが箱庭のような平穏を享受していたのである。

 令和が始まってみると、米中の衝突はいよいよ現実味を帯び、中国が「一帯一路構想」を引っ提げて、国際政局のグレートゲームに乗り出そうとしている。「中国の世紀」の足音が迫るいま、勃興するパワーを等身大で捉える著作が日本から次々に生まれつつある。中国理解という観点では、欧米を圧倒する知的蓄積をもつ国なのだろう。梶谷懐著『中国経済講義 統計の信頼性から成長のゆくえまで』は、米中貿易戦争のなかで「チャイナ・リスク」を複眼的な視座から論じた好著である。習近平政権が提唱する「一帯一路」構想について梶谷は次のように述べている。

 「星座のように、想像力を働かせればつながりがあるように見えるが、そこに何かのルールや、全体を統括する組織などの実体が存在するわけではないのだ」

 中国が建国以来、初めて世界に示したグランドデザインは確かに星雲のように曖昧模糊としている。だが、わが身を振り返れば、いまのニッポンにはこれに対抗しうるような、骨格の雄大な「アジアの純真」は残念ながら見当たらない。

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