手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「今月買った本」 当事者にも見えない歴史

 歴史ブームだという。平成の時代がまもなく幕を下ろすからだろう。たしかにいま書店には歴史を扱った書籍が溢れている。あの時、じつは世界は――そんな事件の深層を誰しも知りたいと願う。だが、たとえ現場に居合わせたとしても、その出来事がいかなる歴史的な意味を持っているのか、見抜けるとは限らない。

 ハーバード大学の国際問題研究所のフェローとして、現代史の泰斗アーネスト・メイ教授の「ベトナム戦争の起源と終焉」のセミナーに参加した時のことだ。北爆はなぜ、どのようにして始まったのか。国防総省と北ベトナムのかつての当局者が、それぞれの視点からユニークな分析を試みた。サイゴン陥落の年に生まれた理科系の学部生の姿もあった。彼らは膨大な文献を読み込み、当事者にインタビューし、悲劇の実相に肉迫していった。冷戦期にアジアで生起し、アメリカの若者の命を奪った戦いを怜悧に捉えようとしていた。ああ、われわれはベトナム戦争をどれほど知っているのか――そんな苦い思いを抱かざるをえなかった。

 いまは亡きメイ教授と並ぶ現代史家ロバート・マクマン。この人の筆になる『冷戦史』は、東西両陣営が厳しく対峙した四十五年間にわれわれを誘ってくれる。英語版のサブ・タイトルは「極めて短い入門書」と銘打ってある。だが、簡潔であることは、内容が薄っぺらなことを意味しない。スエズ動乱、キューバ危機、さらにはベトナム戦争へ、その叙述は説得力に富み、じつに明晰だ。ヨーロッパは東西冷戦の「戦略正面」と呼ばれた。だが皮肉にも欧州から離れた辺境の地が、冷戦の主戦場となり、それゆえ熱戦の様相を帯びていった経緯を解き明かしている。

 「軍事攻撃に断固として立ち向かい、同盟国を防衛するという誓約を履行する」

 いかなる犠牲を払っても同盟国を守り抜くアメリカの約束こそ、共産主義への決定的な抑止力だった。その堅い決意が「冷戦の同盟システム」を揺るぎないものにしたと著者はいう。だが、突如として超大国に現れた異形の大統領トランプは、かかる盟約には少しも囚われていない。冷戦が遠景に遠ざかっていくとはまさしくこのことだったのか――本書を手にした読者はそう思い至るだろう。

 日ごろの経験から抱いていた漠然とした印象が新しい著作で裏付けられる。これほど嬉しいことはない。野嶋剛の『タイワニーズ』はまさしくそうだ。台湾の血を引く女性には心せよ――。奔放不羈にして、深い知恵に支えられ、同時に勤勉さも併せ持っている。著名なひとも、市井に隠れているひとも、日本に生きる「タイワニーズ」の女性たちは、ゆったりと構えて、物事に動じない。

 余貴美子、ジュディ・オング、温又柔らを取りあげ、タイワニーズの人生の軌跡を追って台湾を巡り、秀逸なルポルタージュに仕上げている。とりわけ、余貴美子が圧巻だ。彼女の家系は台湾の矩(のり)を遥かに超えた客家だった。北方の異民族に逐われ、アジア全域に活路を求めた流浪の民の遺伝子を色濃く受け継いでいる。その血に目覚めたことで彼女の内面に化学変化が起きたと著者はいう。自ら意識してタイワニーズに、いや、客家になることで、一層魅力ある女優に変貌していった。「日本人でもなく、台湾人でもなく、客家人として生きる」という余貴美子の覚悟が鮮やかに描かれている。

 終わりに本好きの人たちには堪らない一冊を取りあげたい。『この星の忘れられない本屋の話』は、魅惑の本屋に遭遇したことで新たな人生航路を見つけた人々のアンソロジーだ。ナイロビ、北京、ワシントンD.C.郊外、イスタンブールなど様々な街にある書店を舞台に、本を愛する人と書店主の心の触れ合いが活写されている。だが、そんな書店がいま、地球上からから消えつつある。人々の心を躍らせる書店の多くは、いまや絶滅危惧種になりつつある。だとすればインターネットはスペイン風邪だ。居心地のいい書店がこの星から姿を消さないうちに訪ねておかなくては。

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