手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「今月買った本」 少年旅行記

 人生は数多くの些事とほんの少しの重大事から成り立っている。それゆえ自伝を書く時には読者を退屈させぬよう厳しく中身をふるいにかけなければいけない。「短編の狙撃手」ロアルド・ダールはそう諭し、次のように述べている。

 「どうでもよいような出来事はすべて切りすて、鮮明に記憶に残っていることだけに集中しなくてはならない」(『単独飛行』永井淳訳より)

 だが『十五の夏』の佐藤優は、ダールの教えに真っ向から逆らっているように見える。高校一年生となった少年は、いまだ冷戦下にあった東欧・ソ連をひとりで旅した。そしていま、あの夏休みの四〇日を細大漏らさず上下二巻の大著に再現してみせた。旅先で出会った人々との会話、日々の食事、果ては列車のトイレまで克明に描いている。一切をふるいにかけず、眼前に見たものを後知恵で修正していない。検察官との会話をほぼ完璧に記憶してみせたこの人ならと納得してしまう。この書を手にした時の衝撃はこの一点にある。

 我が十五の夏休みを思い出そうとしたが、ほぼすべてが喪われている。ああ、空知川のほとりで放埓な読書に費やした僕の夏休み――。読んだのが井上靖か、中島敦か、坂口安吾だったかさえ憶えていない。

 ひとり旅を続ける優少年は、ルーマニアのブカレスト駅からソ連国境を越えウクライナのキエフ駅に向かう。夜行の食堂車の光景が鮮烈だ。

 「スープと一緒に黒パンが山盛りになって出てきた。今までポーランド、ハンガリー、ルーマニアで食べたライ麦パンとは全く別の種類のパンだ。ライ麦の割合が高く、生地が密に詰まっていて、酸っぱい」

 強権体制下といっても東欧・ソ連のそれぞれの国で監視、検閲のありようは微妙に異なっている。十五歳の感受性は、その一つひとつから権力の意思を感じとり、後に希代のクレムリン・オブザーバーとなる滋養としたのだろう。

 『十五の夏』の行間には、憤怒がふつふつと滾っている。銀行の電気技師だった父親が暮らしを切り詰めて出してくれた四十八万円で東欧・ソ連を横断する貴重な旅をしながら、夏休み明けにある数学の試験に備えて百の例題を解く少年がそこにいる。浦和高校に伝えられる「数学は暗記科目だ」という教えに従おうとするのだが、旅先で見たサーカスの熊のように受験という火の輪をくぐりたくないと思う。これほどの天分に恵まれた少年にこの国の受験制度はなんという拷問を加えたのだろう。可能性に富んだ時間を干からびた社会の常識によって浪費してはいけない――。若者はそんなメッセージをこの少年旅行記から読み取り、「明日は君たちのものだ」と考えほしい。

 『君たちはどう生きるか』の漫画本を読んでみた。コペル君の物語が出版されたのは、欧州で二度目の世界大戦が始まる二年前のことだ。日本も日中戦争に突入し、書籍の検閲は次第に苛烈なものになっていた。少年向きの書籍であっても、いやそうであればこそ、検閲当局とのやりとりは、触れれば鮮血が迸るようなものだったろう。随所にそんな格闘を思わせる節が窺われる。だが、全体主義体制下をひとりで旅した優少年も、コペル君も、それゆえに鍛えられ、多くのものを学んだのである。

 スターリンの鉄の支配下でモスクワ特派員を務めたアメリカの記者は「検閲はジャーナリストを鋼のように鍛える」と言っている。陽光溢れる戦前のロサンゼルスも、じつは金と汚職と暴力に塗れた街だったのだが、たったひとりで権力に抗った男がいた。チャンドラー描く私立探偵マーロウだ。『フィリップ・マーロウの教える生き方』には、銃について粋なセリフが採録されている。

 「銃というのは、出来の悪い第二幕を早く切り上げるためのカーテンみたいなものだ」  銃に象徴される暴力装置こそ自由な精神を蝕んでしまう。時に銃に頼って警察権力と対峙した一匹狼の言葉だけに冴えわたっている。

 「今月の十冊」

 ▼「十五の夏」上・下 佐藤優著 幻冬舎
 ▼「漫画 君たちはどう生きるか」 漫画芳賀祥一 原作吉野源三郎 マガジンハウス
 ▼「フリップ・マーロウの教える生き方」レイモンド・チャンドラー 村上春樹訳 マーディン・アッシャー編 早川書
 ▼「対訳 21世紀に生きる君たちへ」 司馬遼太郎著 ドナルド・キーン監訳 朝日出版社
 ▼「核戦争の瀬戸際で」ウィリアム・J・ペリー著  松谷基和訳 東京堂
 ▼「いま蘇る柳田國男の農政改革」山下一仁著
 ▼「秘録イスラエル特殊部隊 中東戦記1984-2014」マイケル・バー=ゾウハ―&ニシム・ミシャル著 上野元美訳
 ▼「カウンター・テロリズム・パズル 政策決定者への提言」ボアズ・ガノール著 河合洋一郎訳
 ▼「ピュリツァー賞受賞写真全記録」ハル・ビュエル編著 河野純治訳
 ▼「海の地政学 海軍提督が語る歴史と戦略」ジェイムズ・スタヴリディス著  北川知子訳

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