『いま蘇る柳田國男の農政改革』 山下一仁著
戦後一貫して官僚機構の頂点に君臨してきた旧大蔵省、いまの財務省は、決済文書の改ざんをめぐって日々迷走を続けている。この国にあって予算編成権と徴税権を一手に握り、国会の予算審議すら陰で差配してきた特権官僚群が総理官邸の権威にひれ伏す醜態には思わず眼をそむけたくなる。そんなさなかに手にした一冊の本は、「国の基本は農業にあり」という信念を抱いて農政改革に挑んだ官僚たちの物語だ。彼らの志の高さに感銘を覚えてしばし巻を置くことができなかった。
本書は、名著『遠野物語』を著わした民俗学の祖、柳田國男の若き日から筆を起こしている。彼が農商務省と内閣法制局で農政に携わった期間はわずか10年足らずだった。若輩の農政官僚は、貧農があふれる当時の農業のありようを直視し、農業改革の思想は著作に遺されていた。
柳田は幼少期に目にした農村の惨状を思い、「なぜ農民は貧なりや」と自問した。地主のもとで狭隘な田畑を耕す小作人制度に病弊を診てとり、自前の土地を持つ中農の創設こそ急務と訴えた。これに対して選挙権を持つ地主階級は、関税に守られた高い米価を望み、小作人制度に手をつけることを認めようとしなかった。柳田の改革案は顧みられなかったのである。
だが柳田の革新的な農政思想は、農林省の後輩である俊秀たちに受け継がれていった。農林官僚の出身で、後に総理に擬せられながら「本の表紙を替えるだけではだめだ」と峻拒した伊東正義から、自民党の政調会長時代に次のような話を直接聞いたことがある。
「戦後の農地解放はもっぱらGHQの手で断行されたと一般には思われているがじつはそうじゃない。戦前の農水省には、石黒忠篤さん、和田博夫さんといった剛の者がいて、農地改革の構想を戦前から密かに練っていたんだ」
石黒忠篤こそ昭和前期の農政を取り仕切って「農民の世話役」と呼ばれ、和田博雄は、吉田内閣の農林大臣として農地改革をやり遂げた逸材だった。その系譜を継いだのが、農林事務次官の小倉武一であり、農業に精通する経済学者、東畑精一らだった。彼らはいずれも柳田國男の農政思想に深く共鳴していたと本書は記している。
かくして念願の農地解放は成り、戦後民主主義の礎が築かれたかにみえた。だが、戦後の農地改革は、柳田が構想したような、国際競争力を備えた「中農」を出現させなかった。農地法が足枷となって土地の集約が進まず、高関税が高い米価を維持して、コメは競争力を喪っていった。加えて土地を手にした自作農は保守政党の強固な支持基盤となり、農協組織が強大な政治力を振るって現状を塗り固めてしまった。戦後の日本でも柳田が掲げた改革は実現しなかった。
自身も農政官僚だった著者の山下一仁は、挫折の連続だった日本の農政を文献を丹念にたどりながら検証し、将来の日本農業はいかにあるべきかを柳田の言葉を引いて問いかけている。
「『日本は農国なり』という語をして農業の繁栄する国という意味ならしめよ」
減反を廃止して、米価を下げれば、農地は主業農家に集積する。そして主業農家に限って直接支払いを実施すれば、農業規模は必ず拡大する。単収も上がって、生産コストは下がり、コメ産業は一大輸出産業になるはずと主張する。そして金融業に傾くいまのJA農協の在り方に警鐘を鳴らし、農業部門を切り離して地域協同組合にすべきだと提唱する。国際的な競争力を蓄えてこそ日本農業は生き残ることができる。柳田農政の遺伝子が著者、山下一仁にも色濃く受け継がれている。