手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

遠く海より来たりし者 暖あやこ著 新潮社

 物語世界を切り拓く錬金術

書評「それ」に初めて気づいたのは、風呂上りに身体を拭いていた時だった。尾てい骨のあたりに微かに膨らみが感じられ、やがて親指大となった。最後は30センチもの尻尾に変貌し、先っぽは壊死したように黒くなっている。
「なんでこんなものが生えてきたのだろう――」

 A4版の赤い表紙のノートにはそう記されていた。それは製薬会社の社史編纂室に異動を命じられた薫が岡山支社の倉庫で見つけた記録だった。
薫は古びた一冊のノートに導かれて、なぜか地図に載っていない瀬戸内の島に赴いていく。後輩の男性社員を伴って島に上陸したものの、眼前には荒涼とした瓦礫の山が拡がるばかりだった。記録に残る人々の島の暮らしはどこを探しても見当たらなかった。

 4億年の太古の昔から地球上に生存するカブトガニには青い血が流れている。著者の暖あやこは、岡山県笠岡市周辺に生息する天然記念物の節足動物に啓示を受け、この特異な物語を紡ぎ出したという。海沿いの村々では古くからカブトガニの青い体液には癌を予防する効能があると言い伝えられてきたという。

 巻雲島と呼ばれる謎の島を舞台に、創薬メーカーはカブトガニの青い血液を島民の人体に注入し、癌に冒されない身体を創り出す壮大な治験を繰り広げていたのである。薫の母親らしい人の書体で記されたノートには、人々をこの島に送り込み、被験者として密やかな人体実験が続けられていた事実が克明に記されていた。幼い子供たちまで巻き込んだ治験は成功裡に進んでいた。「それ」がお尻ににょきにょきと生えてくる副作用を除けば――。

 主人公の薫は、社史編纂のために調査を続けるうち、母親の柊子が衝撃的な事実を刻んだノートの筆者だと確信を深めていく。わが母もまた「それ」を隠し持ちながら、自分を産み落とした。こうして、薫の祖父にあたる失踪者こそ、知られざる瀬戸内の島で、生身の人間を使って禁じられた治験を繰り広げていたマッドサイエンティストであった事実を突き止める。

 だが、新薬を世に送り出して巨額の富を貪り食う巨大製薬会社にとって、悪魔の科学に魅入られた研究者など歯車のひとつに過ぎない。癌に耐性を与える画期的な新薬はついに完成し、製薬会社は他社を圧して生き残った。その陰で被検者となった人々は「それ」に懼れ慄き、茨の人生を送らなければならなかった。常の人たちと異なることは、根深いコンプレックスを人々に植え付け、人目に怯える日々を強いたのだった。

 『遠く海より来たりし者』は、マッドサイエンスをテーマに綴られているのだが、全編を通じてリアリティを少しも損なっていない。その証拠に、この物語を読み終わる頃には、読者は自分の尾てい骨のあたりにそっと手を触れてみたくなることだろう。だが、著者は、物語の最後にすべてを破砕する地雷をそっと忍ばせている。現世の価値観をそっくり反転させてしまう結末が待ち受けている。

 凡庸な科学者たちは、マッドサイエンスをいかがわしい業だと断じて退けてしまう。だが、マッドサイエンスの典型とされる錬金術こそ、近代の科学に夜明けをもたらしたことは認めざるを得まい。暖あやこは、類稀な想像力を駆使して賢しらな常識という名の引力から離脱する筆力を備えている。彼女こそファンタジー小説の世界に久々に現れた錬金術師(アルケミスト)なのかもしれない。

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