『今月買った本』
文学の場所性
氷結したロシア・スンガリを望むハルビン、世界最寒の首都オタワ、そしてクレムリンに粉雪が舞うモスクワ。いずれも厳寒の地として知られているが、真冬の晴れた日に街路を歩いてみるといい。澄みきった大気に微小の粒子が陽に輝いて、頭はすっきりと冴えわたって爽快な気分になる。
凍てつく街路を散策するのは苦手だが、冷気に触れてさわやかな気分は味わってみたい――。そんな人にお薦めの一冊がジャック・ロンドン著『犬物語』だ。二〇世紀初頭のアメリカに突然変異のように現れた作家が犬にまつわる五つの短編をものし、翻訳の名手、柴田元幸が編んだ珠玉の叢書である。圧巻は「野生の呼び声」だろう。
温暖な西海岸の豪壮な邸宅で王のように暮らしていた大型犬バックは、或る日、拉致されてしまう。ゴールドラッシュに沸き立つ極寒の地で使役されるためだ。ふさふさとした毛に身を包むバックは、次々に襲い来る苛烈な運命と戦いながら、自らの内に眠っていた野生に目覚めていく。
彼の眼前で突如として繰り広げられる狼犬たちの死闘。司馬遼太郎はそんな光景を描き出すロンドンの文体を「削岩機」と形容して賞賛を惜しまなかった。
「閃光のように飛び出してきて、カチッと金属のように歯を食い込ませ、同じくすばやく飛びのく。カーリーの顔は目からあごまで引き裂かれた」
司馬遼太郎は開高健を悼む弔辞で、開高の類い稀な文体を「大地に深く爪を突き刺して掘り崩してゆく巨大な土木機械を思わせる」と評し、ロンドンの掘削力に対比させている。。
「そのとき思い合わせた一情景は、十九世紀末、二十世紀初めのアメリカの新しい文学的状況のことどもでありました。東部の中流家庭の母親が、イギリスの品のいい文学を娘たちに読ませているとき、西方の太平洋岸にあっては、たとえばジャック・ロンドンの削岩機のような文体が出現したようなものであり、あるいはそれよりあとの、走る牛をつかんで五つの指を突きさし、生肉をむしりとるような文体の持ち主が相次いで登場した時期のことでもありました」
「主犬公」バックは、野生を漲らせたロンドンの投影であっただけではない。野生の国家としてやがて世界に覇を唱えようとしていた若きアメリカの分身でもあった。
20世紀は国家の野生が暴虐に至る「戦争の世紀」だった。その沸点はナチス・ドイツの強制収容所。シャネルに憧れる若い英国女性が彼の地で閉じ込められ、暴力と監視のもので労働を強いられる。『ダッハウの仕立て師』は、歴史学者が書いた物語だけに、細部が緻密で堅牢だ。
その後に続く「冷たい戦争」で東西両陣営はベルリンを舞台に死闘を繰り広げた。畢生の名作『寒い国から帰ってきたスパイ』の著者ジョン・ル・カレは、老いてなお冴えるわたる筆で冷戦の戦士たちをいまに蘇らせた。自身も情報部員だったル・カレは『スパイたちの遺産』で冷戦歳に逝ったスパイの墓を掘り返し、老情報大国の古傷と向き合っている。
分断された街ベルリンの検問所「チェックポイント・チャリー」で敵の銃弾に斃れたアレックス・リーマスは私生児を遺していた。彼のひとり息子がイギリス政府に訴え、巨額の損害賠償を求めたのである。雑草に覆われた古戦場から、往年のスパイたちが次々に喚問されていく。秘密情報部の上層部に潜む裏切り者に孤独な戦いを挑んだ伝説のスパイ、ジョージ・スマイリーと部下のピーター・ギラムが主な標的となり、若い後輩の苛烈な追及にさらされる。
リーマスは貴重な情報源「チューリップ」をベルリンから亡命させるため、彼女の息子グスタフを父親のもとに送り出し、チェコへの脱出行を試みる物語は哀切である。暗く煤けているが、モルダウ河に抱かれて美しい冷戦期のプラハが鮮やかに蘇ってきた。かつて私もまたこの地に身を置いたことがある。冷たい戦争を目撃した者の責務として、その素顔を記しておかなければ――、そんな思いを深くさせられる力作だった。