今月かった本 ~小さな版元の意欲作~
夏が近づくと、まとめて読みたいと思っていた古典の長編や再読したいと積んであった名作を段ボール箱に詰め込む。冷房が要らず、窓を開けても蚊がこない蔵王山中の温泉に出かけて、ひと月近くを過ごす。
ひがな一日、好きな本を手に寝転んでいるのが心地いい。だがそんな至福の時間は限られている。ならば、時の風雪に耐えた書物だけを読むべしと自らに言い聞かせてきた。 ところが、当欄を担当することになり、絶滅危惧種の書店をいくつか経巡ってみた。意外にも魅力に満ちた新刊が店頭に並んでいるではないか。しかも小兵の版元が出版不況にもめげず意欲作を手がけていることに感銘を受けた。
茶道文化の研究者、生形貴重が利休切腹の真相に挑んだ労作『利休の生涯と伊達政宗』(河原書店)もまさしくそんな一冊だった。通説では、高位の人々が出入りした大徳寺の山門に利休像を上げたのは身分の秩序を乱す行為だと秀吉の逆鱗に触れて切腹が命じられたとされる。だが、秀吉の天下取りに大功があった千利休を自刃に追い込むにはいかにも説得力に欠けると疑問を拭えなかった。
生形は膨大な史料、消息、伝承を渉猟し、堅牢な歴史家の姿勢を保ちながら、政局のけもの道を辿っていった。下剋上の時代を生き抜いてきた徳川家康ら戦国大名と中央集権体制を志向する石田三成らの官僚群。豊臣政権は相容れないふたつの陣営に支えられていた。来るべき唐入りに備えて秀吉には、強大な兵力を率いる戦国大名と兵站を司る有能な官僚群がともに欠かせなかった。
「政権の分裂・対立を回避しようとした秀吉は、政治的な苦渋の決断として、利休を政権から追放することを決断した」
家康らが味方する北方の覇者、伊達政宗が謀反を企てているという噂を打ち消し、戦国大名をわが陣営に惹きつけておきたい。そう願う秀吉は、政宗を陥れる情報を流している三成らも離反させるわけにはいかなかった。苦肉の策として、政宗との連絡役をつとめる利休に一切の責めを負わせることにした。それゆえ、政宗に疑いなしとした翌日、利休は政権から追放された、と生形は読み解いている。そうだったのかと得心がいった。
秀吉の唐入りの野望は、利休を犠牲にするほどの苦痛を伴った。近代の日本も新たな唐入りを目指して中国大陸に進出する。吉岡佳子著の『人民元の興亡』は、毛沢東、鄧小平、習近平へと引き継がれる現代中国の前史として「満洲の通貨」に一章を割いている。
「紙幣は弾丸なり」。吉岡はかの地を支配した関東軍の言葉を引いている。「満洲国」の創設は、まさしく新しい通貨つくりから始まったという。中国共産党もまた人民共和国の樹立に先駆けて「人民元」の発行に踏み切っている。幾多の外国紙幣が併存した半植民地の屈辱を知り抜いていたからだろう。かくして人民元は国力の充実と共に国際通貨と認められるまでに成長した。著者は「一帯一路」のオブザーバーとして、そんな中国のいまを見つめ続けている。そのひとが人民元を離れてビットコインに走る中国の庶民を描いている様が興味深い。
貨幣は一国の経済にとって欠かせない血液なのだが、高額の紙幣は当局の監視を逃れて脱税や麻薬取引に使われている。そんな高額紙幣の負の素顔を実証的に暴いてみせたのがハーバード大学のロゴフ教授だ。『現金の呪い 紙幣をいつ廃止するか?』は、高額紙幣を廃して地下経済に痛打を浴びせよと主張する。金利水準が負になれば、人々は預金を引き出してタンス預金に回す。だが高額紙幣を撤廃すれが、タンス預金など叶わず、投資や消費に振り向けられて景気浮揚の効果を生むとロゴフ教授は指摘する。百ドル紙幣などなくしてしまえ。そう唱える学者を輩出するアメリカの大学は知的格闘技の主戦場だと感心した。緑陰でこんな刺激的な本をむさぼり読むのは実に楽しい。
(今月買った本)
① 『人民元の興亡ー毛沢東・鄧小平・習近平が見た夢ー』
吉岡佳子著 小学館
② 『現金の呪い ―紙幣をいつ廃止するか?―』
ケネス・S・ロゴフ著 日経BP社
③ 『実録 交渉の達人 ―国際標準化戦争秘録―』
原田節雄著 日経BP社
④『彗星パンスペルミア』
チェンドラ・ウィックラマシンゲン著 恒星社厚生閣
⑤『利休の生涯と伊達政宗 ―茶の湯は文化の下克上―』
生形貴重著 河原書店
⑥『7MI6対KGB 英露インテリジェンス抗争秘史』
レム・クラリシリニコフ著 東京堂出版
⑦『ブルームの歳月 トリエステのジェイムズ・ジョイス1904-1920』
ジョン・マッコート 水声社
⑧『トレブリンカの地獄』
ワシーリー・グロスマン著 みすず書房
⑨『東芝 大裏面史』
FACTA編集部・著 文藝春秋社
⑩『棋士とAIはどう戦ってきたか』
松本博文著 洋泉社