手嶋龍一

手嶋龍一

手嶋龍一オフィシャルサイト HOME » 手嶋流「書物のススメ」 » 書評

手嶋流「書物のススメ」

文藝春秋BOOK倶楽部
鼎談書評『アウトサイダー』ベストセラー作家が送った、まるで映画のような人生

手嶋 『ジャッカルの日』で鮮烈なデビューを飾った英国の作家、フレデリック・フォーサイスによるきわめつけの自伝。余計な解説など要りません(笑)。少年時代からの夢だった女王陛下の空軍パイロットになった後、ジャーナリストを志す。地方紙を振り出しにロイター通信を経てBBC特派員に。ここで官僚体質と衝突してやめ、食うために小説を書く濃密な人生が、筆を節して語られています。作家の資産は少年時代の記憶にあり。いまも覚えている、これはという出来事だけを採録した、自伝の教科書、まさしく傑作です。
 片山 冷戦下、ロイター通信の特派員として東ベルリンで暮らしていた話は、ひじょうにリアルです。電話はすべて盗聴され、外出にはぴったり尾行がつく。西側との直通電話は禁止されていて、原稿は穿孔テープにパンチで穴を開け、テレックスで送る。もちろん、電話より盗聴しやすいからです。
 あるとき、東ドイツ領内に米軍機が墜落する。フォーサイスは密かに墜落地点を突き止め、救出を計画するアメリカに伝えようと十五ページ分の記事を最高の速度で送信すると、十四ページ送ったところで「回線故障」と表示されて回線が途切れます。盗聴員がまずいと気がついたわけです。ところが彼らが上司にお伺いをたてている間に十四ページ分の情報は西側を駆け巡っているというのですから、東側の盗聴体制も案外間が抜けていますね(笑)。

山内 BBCの記者だった一九六七年、イギリス統治下にあったナイジェリアでの取材がフォーサイスの人生を大きく変えてしまいます。
 ナイジェリアからの独立を目指すイボ人の中佐がビアフラ共和国と名乗ってクーデターを起こし、連邦軍が鎮圧に乗り出す。フォーサイスの任務は、十日ほどで簡単に終わる鎮圧を確認し、報告すること。ところが現地に行くと、まったく話が違う。 フォーサイスが目にするのは、祖国・イギリスの非道です。ナイジェリア国内では部族対立による虐殺が行われているのに、連邦政府は何の策もとらないどころか、ナイジェリア政府によるビアフラ共和国の経済封鎖を黙認し、百万人もの子どもが飢え死にするのを見殺しにした。結局、ビアフラ戦争は二年半に及びました。イギリスの罪は重いですよ。義憤に駆られて真実を報道しようとしたフォーサイスは、窓際の部署に追いやられてしまう。「BBCは国のために放送するのだから、海外特派員は政府が望まないようなリポートをしてはならないという掟があることに気づいていなかった」と皮肉たっぷりに書いています。

小型機内でインタビュー

手嶋 BBCの首脳陣と喧嘩してフリーランスになって再びビアフラの前線に赴きます。自由の身になってイスラエルで現代史の巨人と出遭うことになります。

山内 なんと、初代首相のダヴィド・べングリオンです。家政婦に「二十分だけ」ときつく言われたのに、フォーサイスが昔の思い出から尋ね始めると、ベングリオンも嬉しかったのか、ほぼ一日中話を聞かせてくれたという。それからイスラエル空軍の創設者であるエゼル・ヴァイツマンにもインタビューしています。場所はなんと小型の高翼単葉機。興に乗ったヴァイツマンが両手を操縦桿から離して身ぶり手ぶりで話すので、飛行機はひっくり返って真っ逆さまに降下を始める(笑)。

手嶋 戦乱のビアフラで、英国の醜悪な素顔をまのあたりにする。このくだりはアラビアのロレンスを思わせます。いつしかメディアの世界でも一匹オオカミになっていました。仕事もなく、カネもない。その苦境を抜け出すため書いた小説が『ジャッカルの日』、かれの大博打でした。そして次々に話題作をものしていく。

片山 成功譚で終わるかと思ったら、離婚で財産を半分持っていかれたり、騙されて一文無しになったり。波瀾万丈で読者を離さない(笑)。

MI6への協力は当たり前

手嶋 本書では英国のインテリジェンス機関との密やかな関係に初めて触れています。これは僕の守備範囲ですので背景を説明します(笑い)。

山内 イギリスといえば、通称MI6、つまり秘密情報部が有名ですが、諜報機関はそれだけでなく、三つあると書かれている。これはどの国も似たようなもので、例えばイスラエルでは誰もが知っているモサドのほか、公安庁のようなシャバクやアマン、そしてママドと四つ存在しています。

手嶋 フォーサイスは、自己保身に走る官僚と対立する一方で、情報部には一級のインテリジェンスを提供していました。本の帯には「フォーサイスはMI6の協力者だった!」と書かれてある通りです。「知りすぎた男」である僕からいえば、驚くような話じゃない(笑い)。諜報機関と手練れのジャーナリストは、一種の共犯関係にあるのです。老情報大国は、インテリジェンスの内在論理に通じた有力作家にそれとなく極秘情報を流し、英国民の情報感覚に磨きをかけています。ああ畏るべし。

片山 第一次世界大戦中に自ら志願して諜報機関に入り、スパイとして活躍したサマセット・モームもイギリス人です。

山内 本書には、九二年にMI6に協力した話が出てきます。冷戦が終わり、欧米では南アフリカが保有している核についての懸念が大きくなっていました。そこでフォーサイスの出番です。取材を通じてアフリカで人脈を築いていたフォーサイスは南アの外相と親しかった。休暇と偽って息子を連れてアフリカに渡り、外相の家族と狩りを楽しんだあと、原爆をどうするつもりなのかと重要な質問を投げかけます。それに対する答えは、本書を読んでのお楽しみにしておきましょうか(笑)。

片山 『ジャッカルの日』は映画化され大ヒットしましたが、本書もそのまま映画になっても不思議ではないほど、ドラマチックな場面の連続です。どこまで本当なのか、と思ってしまうこともありますが(笑)、それは作家・フォーサイスの筆が見事だと言うしかない。

手嶋 冷戦都市東ベルリンの苛烈な環境で鍛えられた筆力。検閲はジャーナリストを鋼のように鍛えるといいますが、まさしくそうですね。

山内 いよいよトランプがアメリカの大統領に就任しました。カウンターぱーどである超大国ロシア、そしてそのリーダーであるプーチンについて理解が深まる一冊です。本当はトランプが真っ先に読むべきなのですが……。

片山 読まないでしょうね(笑)。

山内 秀逸なのは、プーチンを六つのペルソナで分類していく構成です。まず国家主義者、歴史家、そしてサバイバリスト。これがひとつのグループです。そしてもうひとつがアウトサイダー、自由経済主義者、ケースオフィサー。

片山 前者の三つはプーチンに限らずソビエト時代からの指導者の多くに共通する要素であり、後者はよりプーチンのパーソナルな部分という説明は説得力がある。

手嶋 二一世紀初頭の外交・安全保障分野では、プーチンは最強のプレイヤーです。しかし、その彼がどんな人物なのか、これまで体系だった資料がありませんでした。それだけに六つの分類はじつに鋭い。

山内 読めば読むほどプーチンが恐ろしくなりますよ(笑)。トランプはツイッターで「プーチンは賢い」などと発言をしていましたが、きちんと現実を理解しているとは考えにくい。やや甘く見ているのではないでしょうか。

手嶋 トランプが交渉に足る相手かどうか、プーチンは冷徹に判断するでしょう。前大統領のオバマを見下したのは二〇一四年、シリア紛争の振舞いです。シリアが化学兵器を使えばレッドラインを越えたと見なして、伝家の宝刀を抜く、つまり武力を行使するとオバマは警告した。ところが実際に自国民に化学を使ったことが裏付けられても、オバマは武力行使を見送ってしまう。この瞬間、プーチンはその程度の男と見限ったのでしょう。プーチンはアサドに化学兵器を差し出させて、中東での外交上の主導権を一気に奪ってしまったのです。両者は格が違う。

山内 当時、プーチンはニューヨークタイムズに寄稿して「今では、世界じゅうの多くの人々がもはや、アメリカを民主主義のお手本だとみなさなくなってきた」と、アメリカを厳しく批判しています。本書では、この論説で「プーチンの『アメリカ教育』は完了した」と言っている。おそらく、トランプ体制下のアメリカとどう接するかも戦略的に考えているでしょう。

手嶋 トランプの方が与しやすしと見ているのでしょう。超大国アメリカの急速な衰えを、オバマ、トランプという二人の指導者にはっきりと見ているはずです。

歴史の巧みな使い手

片山 プーチンが立憲主義を重視しているというのは発見でした。二〇〇〇年に大統領に就任したプーチンは、二期八年務めて退任すると、副首相だったメドベージェフを後継者とし、彼の下で首相となる。ところが四年後には、メドベージェフと入れ替わって再び大統領の座に就く。この二人は何をやっているんだろうと思わざるを得ない(笑)。安倍総理が自民党総裁の任期を延長したように、プーチンも憲法を改正すればいいのに、と。プーチンは、時代からのロシアの継続性を重要視し、立憲主義を貫くために憲法に従っていたのですね。
 ソ連時代を省みて、ある程度強権的に国をまとめていく政治体制を敷き、そこに自由経済を組み合わせてロマノフ王朝の復権も意識している。歴史を下敷きにしたロシア帝国とソビエト連邦のアウフヘーベンがいまのロシアです。ロシア史のポジティブな部分をすべて取りいれた正統化で、さらにロシアは強大になる。この先アメリカを圧倒していく予感さえ漂ってきます。

山内 哲学や歴史に詳しいうえ、それらを利用して国を強くする使命感と能力も持ち合わせていますね。たとえばニコライ二世時代の首相・トルイピンを、国家を改革する遠大な計画を推し進めた人物と褒めたたえて自らの政治手腕を重ねていますが、ストルイピンの改革には富の差を拡大し、ロシア経済は悪化したと批判もある。そうした声は一切無視した巧みな歴史の使い方は、中国の習近平と比べても際立っています。

手嶋 加えて、元KGBのケースオフィサーとして優れたインテリジェンス感覚も備えている。この強かな巨人に、我々はどう対峙していけばいいのでしょうか。

山内 難問ですね(笑)。ただ、先日の日ロ会談は、ひとつ成果を上げていると思います。これまでは日ロ関係を北方四島という地域性や二国間関係だけで捉えてきたため、ロシアは交渉のテーブルにすらつかず、一センチどころか、一ミリも動いていなかった。今回、グローバリゼーションの時代にふさわしい、より戦略的な外交が行なわれたことにより、ごく僅かかもしれませんが歴史が動いたと私は考えています。

手嶋 私もそう思います。プーチンも会見で「領土に関する歴史的なピンポンに終止符を打つ必要がある」と語り、平和条約の締結こそが目標だと言っています。日ロ交渉が久々に動き出したといえます。でも相手はしたたかなプーチン、成果が上がるかどうか楽観できません。日本にもタフな外交が求められます。

山内 特にアメリカとの関係が変化すれば、国際社会に影響を及ぼしかねない。トランプ政権がプーチン率いるロシアとどう接していくのか、しばらくは目が離せません。

片山 手塚治虫の名を知らない人はいないと思いますが、代表作として思い浮かぶのは、『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』など、子供向けの作品が多く、手塚本人が、大人向けの漫画文化を花開かせることを夢見ていたことはあまり知られていません。漫画誌『週刊漫画サンデー』の元編集長である筆者は、手塚をはじめ戦後の日本で活躍した漫画家たちとの交流も深く、”大人漫画””子ども漫画”という概念を使いながら、手塚を主役に据えて戦後の漫画史をひも解きます。漫画とは、そして手塚治虫とはなんだったのか、改めて考え直す契機になりました。
 いまでこそ漫画は子どもが読むイメージが強く、漫画雑誌に載っているような大人向けの作品もその延長線上に捉えられがち。文化の主役にはなっていません。しかし以前は、漫画は大人が読むものだったのです。思い返せば私の実家にも、立派な箱に入った『日本漫画全集』がありました(笑)。

山内 本書では大人漫画の描き手として杉浦幸雄や近藤日出造、横山泰三、サトウサンペイ、小島功などの名があがっていますが、懐かしいですね。いまや、知らない世代の方が多いかもしれない。

片山 ええ、「黄桜」のカッパで有名な小島功の女性の絵を喜んでいる人など、最近はなかなかお目にかかりません(笑)。

山内 大人漫画が本格化するまで、漫画の社会的地位は低かった。人を笑わせるポンチ絵などと蔑視され、漫画家の側もそれを受け入れていました。頭山満の宴席に呼ばれ、観劇のあまり裸踊りを見せたことを自慢する漫画家もいたという(笑)。
 それを聞いた近藤と杉浦は「漫画革命」をやり遂げると息巻き、大人からきちんと評価される漫画を描くべく「新漫画派集団」という団体を作る。活動は大成功し、近藤らは大活躍を始めます。ところがある日、読売新聞に描いた漫画が軍部を刺激し、近藤は自宅で寝ていたところを憲兵に蹴り飛ばされ、取り調べを受ける。そのあとも幾度か憲兵に呼び出されるものの、そのたびにぺこぺこと謝って解放してもらったといいます。当時の憲兵はインテリでもあるし、ここまで野蛮ではないと思うけれど(笑)、漫画家たちに自覚はなくとも、戦争が近づく新体制運動のなかで漫画の役割がある程度認知されていたのでしょう。時局についても学ぶところがありました。

片山 戦後、漫画ブームが訪れて『漫画読本』などの別冊が飛ぶように売れ、専門誌も相次いで創刊されます。ところが子ども漫画では超売れっ子の手塚も、なかなか大人漫画の主流にはなれない。筆者も手塚の名前は知っていたものの、大人漫画の描き手として想定していなかったと言っています。多忙という理由もあるでしょうが、当時の日本では子ども漫画と大人漫画との間に厳然とした境界がありました。そして手塚は、大人漫画の世界でも一流を目指す。元々、大阪大学医学部を出たインテリでもありますから、大人漫画のテーマはいろいろ練っていたのでしょう。

手嶋 「週刊漫画サンデー」で大人漫画の長編を連載するのは、昭和四十年を過ぎてからなんですね。なかでも二年という準備期間を経て始まった『一輝まんだら』は、北一輝を主役に昭和史を描く壮大な作品になるはずだった。ところが、編集長の交代もあって途中で打ち切られてしまう。なんとも残念ですね。

山内 昭和史で北一輝ときたら、片山さんにはこたえられないテーマでしょう(笑)。

片山 どこかで連載を引き受けてほしい、と手塚も嘆いていたそうですね。完成させてほしかった。

手嶋 手塚の大人漫画を読むと、彼が作家としてどれほどすぐれているか伝わってくる。たとえば、晩年に「週刊文春」に連載されていた『アドルフに告ぐ』。戦前の神戸から話は始まりますが、太平洋戦争前夜の神戸の雰囲気が匂い立ってくるようです。いくら手塚少年が神戸育ちといっても、その時代感覚の鋭さには舌を巻きます。私も著書『スギハラ・サバイバル』で、ヒトラーとスターリンの圧政を逃れて神戸にたどりついたユダヤ少年を描きましたが、少年の視点が見事で感銘を受けました。
 片山 漫画だけでなく、アニメーションの世界でも大人向けの芸術性の高い作品を作ろうと、手塚は虫プロという会社を設立するものの、こちらは倒産の憂き目にあいます。『鉄腕アトム』はヒットしても、『千夜一夜物語』や『哀しみのベラドンナ』では儲からなかった。そもそも、大ヒットしたアトムも作るたびに赤字だったというのですから問題ですが。

山内 社長の手塚が、数字が百万円を超えるとさっぱりわからなくなってしまうのだから、仕方ないのかもしれない。漫画の天才に、経営センスを求めるのは無理ですね(笑)。

片山 『アドルフに告ぐ』の連載から三十年が経ちましたが、手塚が夢見たような、大人向けの週刊誌や月刊誌に立派な大人漫画が出ている時代はいまだに訪れていません。手塚の夢はついぞ叶わず、で終わってしまうのでしょうか。

閉じる

ページの先頭に戻る