手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

『大統領の疑惑 米大統領選を揺るがせたメディア界一大スキャンダルの真実』(熊本日日新聞)
(メアリー・メイプス著 稲垣みどり訳 キノブックス)

書評 ケネディ大統領の頭部が狙撃されて血潮が飛び散り、やがて容疑者としてリー・オズワルドが拘束される。続いて警察署の地下駐車場から移送されるオズワルドがジャック・ルビーに射殺されてしまう――。若き日のダン・ラザーは、ダラスの凶劇を淡々と伝えよどむところがなかった。

 あの日から40年、ダン・ラザーはワシントン特派員から夕方のニュース番組のアンカーの座を射止め、アメリカのテレビ・ジャーナリズムを代表する存在となった。
 その果てに保守派の共和党大統領に挑みかかり、凋落の坂道を滑り落ちていった。そのきっかけとなったのが、彼がアンカーを務めたCBSの看板番組「60ミニッツ」だった。共和党の現職大統領、ジョージ・W・ブッシュに民主党のジョン・ケリーが挑んだ2004年の大統領選のさなかの出来事だった。CBSの番組は、ブッシュ大統領がかつてベトナム戦争行きを逃れるため、父親の政治的影響力を使って、テキサス州の空軍パイロットとなったのだが、その兵役さえも怠っていた―と報じたのだった。その事実を裏付ける「証拠書類」を入手して断罪した。ブッシュ青年は州兵の責務を投げ出し、共和党の上院議員候補の選挙運動を手伝っていたと批判の論陣を張った。番組の反響はすさまじかった。 

 われこそは調査報道の雄なり――。CBSの「60ミニッツ」のプロデューサーで本書の著者メアリー・メイプスは自らが放った渾身の「スクープ」に高揚感を漲らせていた。
 だがアンカーマンと番組スタッフが勝利の美酒に酔ったのはほんの一瞬だった。「キリアン・メモ」と呼ばれる証拠書類は当時のタイプライターで打たれたものではない。幾度もコピーされ、加工された偽物だ――こんな指摘が保守派から寄せられた。
 CBS側は第三者委員会を設けて独自の検証を行った結果、問題の書類は偽造されたものだと断じ、ダン・ラザーも番組で釈明をせざるを得なくなる。リベラルなジャーナリズムの象徴だったダン・ラザーは、ついにアンカーマンの座を降りていった。本書は著名なジャーナリストが辿った栄光から挫折をリアルに描いて余すところがない。

 ニュース番組の舵取りを委ねられるアンカーマンは、膨大で複雑なニュースの取材をひとりでこなすわけではない。どこを選んで編集し、スタジオでどんなコメントをするか、その多くを番組スタッフに委ねざるをえない。ブッシュ大統領の軍歴問題を扱った際も、取材・編集を指揮したのは番組のプロデューサーだった。
 華やかなメディアの世界は、すべてを捧げても悔いがないほどの達成感を与えてくれる。彼らが棲んでいたのはそんな華やかな世界だった。だが、たとえ頂上にたどり着いても、ひとたび掴み取ったポストを守り抜くには次なるスクープが欠かせない。だが魅力的なネタには意図的に仕組まれた罠が仕組まれている。

 CBSの番組が「スクープ」の決め手とした証拠の文書にも瑕疵があった。保守派がここぞとばかりに反転攻勢にでたのである。アメリカのメディアの「スクープ」なるものが、証拠書類と証言に決定的に依存している以上、ひとたび証拠書類に重大な傷があれば、獲物は牙を剥いて反撃してくる。番組の論拠はたちまち覆されてしまう。功にはやったスナイパーには落とし穴が見えなかった。『大統領の疑惑』は、現代のテレビ・メディアに生きる者たちの喪失の物語なのである。

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