手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

"一冊の本が新たな旅立ちの背中を押す"

 思えば、ジャーナリストとして幾多の国を訪れ、街角で様々な人々と触れ合ってきました。そんな仕事と巡り合った幸せを感謝しています。しかし世界のすべてを訪れることはかないません。会ってみたい人が応じてくれるとは限りません。すでに亡くなっている人もいるのですから。でも、読書を通じてなら、どんな辺境の地にも出かけられ、どれほど気難しい相手の話も聞くことができます。一冊の本に背中を押されて、新たな旅立ちを決意することもあります。ここに挙げた10冊は、まさに私の人生の羅針盤であり、日々の暮らしを心豊かにしてくれたと言っていいでしょう。

 開高健は、小説家としても天才的ですが、散文の書き手としては紛れもない天才です。なかでも『人とこの世界』は、さまざまなジャンルの怪物を訪ねて、彼らの内面世界を描ききった作品集です。対談相手の語りを混じえながら、開高独自の散文で人物をスケッチして独自のルポルタージュとなっています。

 奄美大島に人間魚雷の学徒兵だった作家、島尾敏雄を訪ねる場面は秀逸です。当時の開高も、島尾もとに精神世界でもがき苦しんいたのですが、常の書き手なら自分たちの心象風景のなかに迷い込んでいくものです。だが開高の筆は、飛行機の窓から見える奄美大島を描くことから始め、ハブの描写を介して、島尾の心にすっと入り込んでいきます。最初にこの本を読んだのは20代でしたが、人間を描くことの力勁さに溜息が出たものです。対象に肉薄するとはいかなる業であるかを教えてくれた作品です。

 開高が人物描写の天才なら、探訪ルポルタージュの鬼才は梅棹忠夫であり、その頂点は『日本探検』でしょう。この本が出版されたのは60年。戦後の日本にはもはや探検に値する地などなくなった。誰しもそう考えていた時代に、新たな対象を見つけ出した新鮮な知のありように驚かされます。

 「北海道独立論」では、根釧原野のパイロットファームにまだ見ぬ自立の可能性を見出して、戦後日本に「もう一つの可能性」を示してみせました。いまも地方創生が叫ばれていますが、沖縄や北海道の自立、さらには見果てぬ夢として独立の燭光を見出していまも新鮮です。中央からの補助金獲得を政治と思い込んでいる人々にぜひ読んでもらいたいアバンギャルドな1冊です。

 未知の世界への旅立ちの素晴らしさ教えてくれたのは、ロアルド・ダールの『単独飛行』でした。短編の狙撃手と評されるひとが書いた自伝的作品が面白くない訳がありません。シェル石油のアフリカの支店に勤めていたダールは、第二次大戦が起きると、志願して戦闘機のパイロットになり、前線に赴きます。沙漠に不時着する体験を新聞に投稿して、作家ダールが誕生するのですが、筆を持った瞬間からプロの書き手だったのでしょう。英国の階級社会で窒息しかかっていた青年が、アフリカの地で蘇るさまは、自分を変えたいと思っている人にお勧めです。

 慶應大学で試験監督をしたとき、受験生から何か話をとせがまれ、『単独飛行』をあげました。

 「君たちにも、この先、思いがけない人生が待っている」と伝えたかったのです。4年後、その話を覚えていた女子学生にキャンパスで「あの本のおかげで少しだけ冒険をすることができました」と声をかけられました。希望の連鎖を生むことも、読書の大きな魅力です。

 私自身、多くのノンフィクション作品を手がけてきましたが、その骨格の雄大さで『ベスト&ブライテスト』から大きな影響を受けました。ベスト&ブライテストとは、かつてのケネディ政権の外交・安全保障政策を担った選ばれし人々を指す言葉です。欧州しか知らないエリートたちが、ベトナム戦争に米国の若者たちを導いてしまった愚行を克明に描いています。

 私は著者に「なぜ筆を執ったのか」と尋ねたことがあります。「5万人もの若者を死なせた知的エリートたちは、アジアの現実を知らない田舎者でしかなかった。そのことを考えると腸が煮えくりかえって、活字にするほか抑えようがなかったんだ」と語っていました。しかし、あくまで事実を積み重ねて、アジアの戦争の雄大な叙事詩を画挙げたのです。そして戦争は簡単に始められるが、終わらせることはいかに難しいかを行間から伝えています。彼の文体は明晰にして、彩り豊かです。現代の戦争の素顔を知りたいという人たちにはぜひ手に取っていただきたい、お勧めの1冊です。

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