「ドクター・ハック 日本の運命を二度にぎった男」
(中田整一著 平凡社)
戦争は時に敵の兵士を偉大な理解者に育てあげる。ドナルド・キーンは、太平洋戦域で対日情報戦を担ったことが縁で、源氏物語の国に取り憑りつかれていった。本書の主人公、ドクター・ハックもまた帝政ドイツの植民地だった中国・青島の攻防戦で日本の捕虜となり、この国への愛をいっそう深めていく。
祖国に帰ったハックは、やがて二つの国の仲を取り持つようになり、日独合作映画の撮影隊を率いて神戸港に降り立った。名作「武士(サムライ)の娘」で15歳の少女、原節子を主役に抜擢して世に出したのだった。
だがハックはもう一つの密命を帯びていた。ヒトラー外交の右腕リッベントロップと陸軍武官の大島浩がひそかに進めていた日独防共協定の地ならし役だった。第2次大戦の幕があがる3年前だ。
しかし、協定の影の功労者は、ナチス内部の権力争いに巻き込まれ逮捕されてしまう。この時ハックに資金を与えてスイスに亡命させたのがベルリンの日本海軍の武官事務所だった。
第二次大戦が始まると、中立国スイスには、アレン・ダレスが米国の諜報機関を置いて対独情報戦の指揮を執っていた。海軍の藤村義朗中佐は、ハックを仲介に終戦工作の標的をダレスに絞っていく。だが日本の統帥部は謀略だとして取り合おうとしない。一級のインテリジェンスも国家が生き残りに使う意思がなければ紙屑同然となる。
筆者の中田整一は、歴史ドキュメンタリーを数多く手がけた元NHKプロデューサーだ。テレビ番組で削ぎ落としてしまった貴重な証言が愛おしかったのだろう。埋もれた声をいつか蘇らせたいと願っていた。かくしてハックも生き生きといまに我々の眼前に立ち現われた。
若き日の中田を世界各地に駆け巡らせ、行き届いた取材をさせたメディアはもはや存在しない。今という時代を精緻に記録していく機能をメディアは喪いつつある。時代の危機をいち早く察知するカナリアは絶滅危惧種になろうとしている