手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「平成海防論 膨張する中国に直面する日本」 冨坂聰 著

書評 2012年9月11日の尖閣国有化は、日本を見舞った「もう一つの9・11事件」だった。中国に断固たる姿勢を示せ――こうした勇ましい声に気圧され、当時の民主党政権は、尖閣三島の買い取りに追い込まれていった。これを機に中国の各地では反日デモの嵐が吹き荒れ、日中関係は戦後最悪といわれるまでに冷え込んだ。だが日本のメディアは、中国に弱腰だと見られるのを恐れてか、このタイミングで国有化の決断に踏み切った民主党政権に批判を加えようとはしなかった。

 メディアの多くが時勢におもねるなか、実りのない国有化だと断じたごく少数のジャーナリストのひとりが富坂聰だった。
「日本の海は本当に多くのモノを失ってしまった」
 今回の尖閣国有化はほんの形の上のものでしかなく、日本の実効支配を弱めてしまう結果になっている―富阪はこう指摘して、民主党政権の誤った決断を「日本のオウンゴール」だと喝破したのである。
 誤解のないように断っておくが、日本の領土である尖閣諸島に国家は管理を強めなければならない、と早くから警鐘を鳴らしてきたのは富坂聡だった。そして当時の東京都の石原慎太郎知事と猪瀬直樹副知事こそ、日中両国を予期せぬ緊張に巻き込みながら、現在にいたるも何の政治的責任も問われていないと次のように述べている。
「日本にも相変わらず『愛国無罪』――動機が良ければ結果は問われない――は存在するのだとため息の出る思いだ」
 愛国的な動機に発するものならば、中国の暴徒が日系のスーパー・マーケットに押し入り、略奪の限りを尽くしても罪に問われない。「造反有利、愛国無罪」。反日デモの際に掲げられたプラカードである。富坂聡は、日本でも「愛国無罪」を許せば、国の将来を危うくするという思いに駆られて本書を編んだという。
 石原、猪瀬両氏の呼びかけに応じて寄せられた基金十五億円は、いまだに宙に浮いたままだ。猪瀬現知事はその著書でこの基金を投じて尖閣諸島に灯台と船溜まりを建設する構想を明らかにしていた。これに対して中国の当局者は、日本側がそうした挙に出れば、人民解放軍の工兵部隊を上陸させ、まったく同じ施設を尖閣諸島に建設するとしてきた。そうなってしまえば、日本と中国が干戈を交えるだけではない。超大国アメリカが、日米安保条約第五条を拠り所に、第七艦隊と沖縄の海兵隊を現地に差し向け、米中両大国が真正面から衝突する事態となろう。無人島をめぐって世界大戦が勃発することなどあってはならない。
 こうした情勢下にあって、2020年に開催が決まった東京オリンピックは、東アジアの海を波穏やかに保つ抑止力として働くはずだ。いかに中国の強硬派といえども、平和の祭典を主催する国の領土を侵すのはためらわれよう。国際社会が注視するなか、オリンピックを台無しにした張本人と名指しされたくはないはずだ。来るべき東京オリンピックは尖閣問題を人質に取ってしまったのである。それは尖閣に国連の施設を建設したに等しい。同時に猪瀬知事もまた、灯台建設といった挙には出られなくなった。尖閣諸島で新たな波紋を巻き起こせば、中国政府は東京オリンピックをボイコットすると欧米諸国はみている。
 尖閣諸島を統一的に管理するために日本政府の関与を強めよ。富坂聡は早くからこう主張してきたが、皮肉なことに国家が前面に出て一元的対応をとったのは中国のほうだった。
「中国は戦略的に尖閣を取りに来ていると思わせたのが、それまであまりに多くて統制ができていないとされてきた海の警備を一本化して中央の意志を徹底できる体制にまとめ上げてきた」
 中国海警局の新設こそ、中国指導部の政治的意志を端的に示している。従来の海に関係する行政組織は「九龍治海」と形容されるように、いくつもの行政組織が複雑に入り乱れて統一を欠いていた。とりわけ国家海洋局の海監、公安部の辺防海警、農業部の中国漁政、それに税関の「四龍」が並び立っていた。だが尖閣問題こそこれらの龍を一つにまとめ上げるのを促した。新たに出現した海警局は、直接は軍に所属していないが、軍に準じる組織であり、それを裏書きするように隊員の九割は人民解放軍からの出向者だという。日本の海上保安庁にあたるものと考えてはその本質を見誤ってしまう。
 富坂聡は北京大学の学生時代に共同通信でアルバイトとしてジャーナリストへの道を歩みはじめた。一九八六年、北京の街頭で学生の民主化デモを目の当たりにして、報道の面白さに目覚めたという。それ以来、この人は徹底して現場に身を置いてきた。それゆえ、過剰なイデオロギーで事実を直視する目が曇ってしまうことがない。本書には中国の大地を這うようにして得られた洞察がちりばめられている。

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