チャイナ・ジャッジ 毛沢東になれなかった男
僕たちの前に現れたのは、堂々たる体躯に不屈の闘志を漲らせた紅衛兵だった。おかっぱ頭の女子学生は、「ブルジョワ司令部を砲撃せよ」という毛沢東の呼びかけに真っ先に応じて造反の狼煙をあげたひとりだった。文化大革命の余燼くすぶる1970年夏の上海の光景はいまも鮮やかに憶えている。
それから1年後に再び上海を訪れたのだが、もはや彼女の姿はなかった。文革の針が右に少しずつ旋回し、極左派が一人また一人と失脚しつつあったのである。北京に着くと人民大会堂で周恩来総理が待ち受けており、長時間の会見が始まった。
現代史の巨人は「我が若き朋友の皆さん」と微笑みかけ、意外なエピソードを披露してくれた。
「紅色は革命の象徴であり、止まれとは怪しからんと紅衛兵は言う。そんな彼らを霧の交差点に連れていきました。紅色ならくっきりと見え衝突を防げるだろうと諭したのです」
それが極左派に向けられた批判であることはわかったのだが、直後に勃発する林彪事件をほのめかしていたことなど知る由もない。閉ざされた国家の奥深くで生起する権力闘争を精緻に捉えることはじつに難しい。「毛沢東になれなかった男」と副題をつけた本書を林彪事件前夜の緊迫した日々と重ね合わせながら読み進めた。薄熙来もまた文革のさなか、八大元老といわれた父、薄一波を足蹴にし、肋骨三本をへし折った紅衛兵だった。
文革が終息して薄一波が復活すると、息子の薄熙来も北京大学に籍を置いて、権力の中枢への切符を手にしている。この名門校で美貌の女学生、谷開来と出会い、軍医だった妻を捨てて結婚している。やがて薄熙来は大連の小さな県に党官僚として赴き、官僚機構の最末端から大連市長、商務相、さらには重慶市の党書記と権力の頂点を目指してよじ登っていく。父の威信と金と才覚の全てを駆使して、権力を鷲掴みにするその凄まじさには思わず吐き気を催すほどだ。
こうして政治局党務委員会入りを望める地平まで辿りついたのだが、妻の谷開来と腹心の部下、王立軍が、重慶市内のホテルで起きた英国人、二ール・ヘイウッドの毒殺事件に関わったことで全てが終わってしまう。「毛沢東になりたかった男」は闇に落ちていったのである。殺された英国人は英国秘密情報部に連なる人物であり、中南海の機密情報をMI6に流していたインテリジェンス・オフィサーだった。
薄熙来は権力の頂を極めるため、毛沢東の革命思想まで利用しようとした。だが、その振る舞いは、鄧小平による改革開放路線まで否定する毒を孕んでいた。現代中国の指導部はこの男に鉄槌を下さざるを得なかったのである。これこそが国家の意志であり、著者が本書の題名とした「チャイナ・ジャッジ」だった。
本書は中国語や英語で書かれた膨大な文献を渉猟しているが、そのいくつかは単なる噂話として消えていき、歴史の風雪に耐えた素材だけが正史に紡がれていくだろう。薄熙来は大連のサッカー場の経営を裏から操り、巨額な裏金を手にしていたとこう記述している。
「その儲けをマカオの賭博場で活用して増殖させ、泉のように湧いてくる金を、国外にある薄熙来や谷開来の口座に送り込み、金を洗っていた」
いかに魔術師のような男でも賭場で蓄財はかなうまい。マカオのカジノはこうした客に大きな勝負をさせ、すった金の一部をスイスの個人銀行に還流させているのである。
中国という巨大国家の奥深くで生起する出来事の本質を探るには、雑多な情報のなかからダイヤモンドの原石を選り抜き、その真贋を判断して、全体像を再構築していかなければならない。本書にちりばめられている賽ノ河原の石ころから、光り輝くようなダイヤモンドの原石を見つけ出すのは、読者の磨き抜かれたインテリジェンス感覚のほかにない。