中枢で抹殺『不都合な真実』
海霧の彼方に国後の島影を望む納沙岬で年老いた元島民が呻くように語った言葉はいまも心に残っている。
「俺たちは外地から引き揚げてきたんじゃねえ。ソ連兵の銃剣で父祖の地を逐われたんだ。威張りくさっていた軍の将校は住民を見捨てて真っ先に逃げていった。ああ、生きているうちに島に帰りたい」
戦火がやむ二週間前、ソ連は中立条約を破ってソ満国境に侵攻してきた。ドイツ降伏3カ月後、ソ連は対日参戦する――英米ソ三巨頭がクリミア半島のヤルタで取り交わした密約が発動されたのである。
終戦史の定説では、日本の参謀本部はヤルタ密約を知らなかったとされる。だが、中立国スウェーデンにいた小野寺信・駐在武官は、亡命ポーランド政府から世紀の密約を入手していた。大戦前夜にリトアニアに赴いた杉原千畝・領事代理が命のビザを発給して6千人のユダヤ難民を救ったことにユダヤ系情報網は貴重な情報で報いたのだった。
日本の運命を左右するストックホルム発極秘電はどこに消えたのだろう。自ら暗号に組んで打電した小野寺百合子夫人は無念の思いを抱き続け、終生探索をやめなかった。本書の著者は、英米の国公文書館に眠る膨大な機密電や文書類を掘り起こし、新らたな分析を試みた。ヤルタ密約を伝えた公電は確かに大本営に届いていたのだ。陸軍の中枢で抹殺された経緯が丹念な取材で裏付けられている。
重大な犯罪行為には動機が潜んでいる。和平の仲介をソ連に委ねつつあった参謀本部にとってヤルタ密約は、日本に留保なき降伏を迫る「不都合な真実」だった。軍中枢の倨傲は、ソ連参戦に先んじて和平の可能性を葬り去ってしまった。ソ満国境で残留孤児を見舞った悲劇。関東軍兵士のシベリア抑留。北方領土の占領。広島、長崎への原爆投下―。ヤルタ密約を握り潰した中枢の罪は計り知れない。
歴史の真実に向き合い、教訓としない国家は、手痛い報復を受ける。フクシマ原発の惨劇を目撃した著者は、巨大組織が情報を恣意的に扱うニッポンの病弊は癒えていないと警告している。