手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

私の名作ブックレビュー 「敦煌」

書評 石狩川水系を見下ろす丘に寝そべって文庫本に読みふける。高校の授業をそっと抜け出し、北国の澄みきった空と向き合いながら、物語に誘われていく。『敦煌』の主人公、趙行徳と自分を重ね合わせ、西域を旅するのは楽しかった。
「黄金も美人もすべて書を読むことに依って得ることができた」
漢文脈の端正な文体は、行徳を科挙の試験に駆りたてた官僚万能の時代を叙述して余すところがない。最終の面接試験に臨むため槐樹(えんじゅ)の下で呼び出しを待ち受けているうち眠りに落ちていく。目覚めると全ては終わっていた。絶望のなかで城外の市場を彷徨(さまよ)ううち異域の女を助けて、見知らぬ文字を刻んだ布切れを貰う。西夏の文字だった。彼は魅せられたように西域を目ざして旅立っていった。

 高度成長の世にも、戦後民主主義にも、受験競争にも馴染めなかった少年の心を物語は掴んで離さなかった。いつの日か僕も出かけてやろう。文革の嵐は全中国を覆っていたのだが、チャンスは意外に早く訪れた。北国の若者たちに国交のない隣国から招聘状が舞い込んだのである。信じ難いことに、見上げると人民大会堂の玄関にあの現代史の巨人、周恩来が出迎えてくれていた。これが無形の査証となり、ゴビ砂漠からモンゴル高原へ、中ソ国境へと道は拓かれていった。『敦煌』がわが人生航路の起点だった。

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