『竹内好 ある方法の伝記』 鶴見俊輔著
日本人の中国像がいま、左右に揺れ動いている。中国という国が、21世紀世界を動かす新興のパワーとして東アジアに台頭しつつあるからだ。空母機動部隊を東シナ海に浮かべ、尖閣列島の領有権を声高に叫ぶ大国は、隣国に暮らす日本人の中国観を塗り替えずにはおかないのだろう。そうした変化は、日中の歴史をも書き換えてしまいたいという衝動を日本国内で引き起こしている。満州事変そして日中戦争へと続く日中関係史の風景も、軍事的な弱者の国に攻め入ったという意識が薄れ、様変わりしつつある。
そうしたさなか、戦前、戦中、戦後を通じて時流に抗いながら、中国と対峙した特異な思想家の生涯を追った『竹内好 ある方法の伝記』が復刻された。武田泰淳と竹内好。ふたりは共に中国と深くかかわりながら、その軌跡は対照的だった。僧侶の家に生まれ武田泰淳は漢文の素養に恵まれていたが、竹内好が東大の支那文学科に入ったのは旧制高校から無試験で入学できたからだった。そんな竹内が自ら「非常に大きな事件」と呼んだ転機は、1932年の朝鮮・満州・中国行きだった。
この時、竹内好は北京に逗留し、これを機に中国と本気で取り組むようになった。漢文を素通りし、個人教師について中国語を習っている。当時の知識人としては希少種だった。帰国後、武田泰淳らを誘って「中国研究会」をつくるのだが、会の名称が「支那」ではなく「中国」だったことに彼の決意が込められている。竹内好が再び北京に赴いたのは盧溝橋事件の起きた直後の37年の秋。トルストイの『戦争と平和』を携えていったという。
「ある方法の伝記」と副題が付された本書の著者は、鶴見俊輔でなければならなかった。この人もまた戦時中のアメリカの拘置所からハーバード大学に論文を提出して卒業し、日米交換船によってア帰国した、異端の系譜に連なる知識人だったからだ。そんな鶴見俊輔が描く若き日の竹内好には決定的な影響を与えた中国の友人がいた。世間的には無名な存在の、だが「こういう場合に中国人はどう考えるか」という時、まず思い浮かべる「代表的中国人」がその人だった。心の友をめぐる苦い思いを竹内好は戦後にこう回想している。
「あなたをいたわることによって、自分をいたわっていたのです。その不遜さが今日復讐されようとは、私は当時まだ気づいていませんでした」
文化の深さは、人々の抵抗の量によって測られる。こう喝破した竹内好は、日中戦争のさなかの抵抗がどれほど広く深いものだったかに無自覚だった自分を深く愧(は)じている。この鮮烈な思いのすぐ向こうには、生涯をかけて相対することになる魯迅が、そして魯迅が描いた「藤野先生」が姿を現そうとしていた。
「日中間の過去の歴史をも書き換えてしまいたい」と願う人々に、本書をひもとくように薦めたい。アヘン戦争を取り上げて、アジア解放の大義を説く同じ人々が、かつて日本軍の特務機関の下請けとしてアヘンを商い、軍の機密費を賄った行為を私利私欲から離れたものだったと同情的に捉えている。
現下の中国人民解放軍の軍拡に対抗できる論理こそ、かつての竹内好の著書のタイトルを逆転させていうなら、「日本人の抵抗意識と中国人の道徳意識」でなければならない。現在の中国が進める外洋への進出や領有権の主張に対峙できるもの、それは日本人の文化の深みに裏付けられた道義の優越性でなければならない。魯迅がしばしば用いた「掙扎(そうさつ)」、抵抗を表すこの言葉こそが対中抑止の武器と心得るべきだろう。