手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

サンダードッグ マイケルヒングソン・スージーフローリー共著 井上好江訳(燦葉出版社)

書評 あの時、あなたは何処にいて、何を思ったのか―。そう訊ねられて、誰もが即座に答えを返してくる出来事は滅多にあるものではない。太平洋戦争が終わった夏の日。ケネディ大統領がダラスで暗殺された秋の日。昭和天皇が崩御された冬の日。10年前の9月11日も、そうした歴史的な瞬間として人々の脳裏に刻まれている。ニューヨークはいうまでもなく、東京で、ダブリンで、ナイロビで、あの惨劇が様々なかたちで語り継がれている。3千人の尊い命が喪われただけではない。同時多発テロ事件を境に、世界の風景が一変してしまったからだろう。

 テロリストが旅客機をハイジャックして世界貿易センタービルと国防総省に自爆テロを仕掛けた9・11事件に首都ワシントンで遭遇したジャーナリストとして、世界各地に住む人々から当日の模様を聞いてきた。9・11事件に関連した著作にもできるだけ眼を通してきた。そんな筆者にとっても、初めて耳にするヒューマン・ドキュメントが次々と出てくる。この事件がどれほど多様な顔を持っているかおわかりいただけよう。

 そんな人間ドラマのひとつが『サンダー・ドッグ』だ。世界貿易センタービルの78階にあるコンピュータ会社に勤めていたマイケル・ヒングソンさんは、崩落するビルのなかを生きのびた。それは鮮烈な生還劇だった。彼は生まれながらの全盲だったが、相棒の盲導犬ロゼールにぴったりと付き添われて地上に還ってきた。

 どこかで轟音が鳴り響き、ビル全体を震わせた。炎が燃え盛り、ジェット燃料の臭いが鼻をつく。マイケルとロゼールは生き残りを賭けてひたすら非常階段を降りていった。

 周りの人々は意外なほどに落ち着いている。だがマイケルはひとつの事態を思い浮かべて、恐怖に慄いた。今もしビルが停電となって灯りが消えてしまえば――。暗闇のなかで人々はパニックに陥るだろう。何十人、いや何百人もの人たちが殺到して、将棋倒しになってしまう。そうなったら誰も生きては地上に出られないだろう。

 そうだ、そのときこそ、自分たちの出番だ。愛犬のロゼールが自分だけでなく、被災者すべてを誘導すればいい。自分は暗闇の世界に暮らして、これまでもロゼールに幾度助けられたことだろう。困難を乗り超えて、共に生き抜く術を身につけてきた。わが人生のパートナー、ロゼールは並外れた嗅覚、聴覚をもっている。その第六感に全幅の信頼を置いており、彼女なら、みんなを救うことができるはずだ。

 マイケルは力強い声で呼びかけた。

「皆さん心配しないでください。もし停電になったらロゼールと僕がここから脱出させてあげます。料金も特別に半額で結構です」

 張り詰めた空気が一瞬和らぎ、笑い声さえ階段に響き渡った。かくして、非常階段に居合わせた人々は、クライシスの絶頂にあって、心をひとつにした。そして、1463段の階段を互いに励ましあいながら降りていった。彼らは「運命共同体」そのものだった。マイケルたちが危機一髪でビルを逃れた直後に世界貿易センタービルは崩落していった。

 東日本大震災でも、人と人の堅い絆が多くの命を救ったことが報告されている。目が見えないことは決して障害ではない。ひとつの機能だ――。こう言い切るマイケルの言葉は、大災害に襲われた今のニッポンにも大きな勇気を与えてくれる。

2011年9月18日付 熊本日日新聞掲載

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