手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

サンダードッグ マイケルヒングソン・スージーフローリー共著 井上好江訳(燦葉出版社)

固い絆

書評 3千人の命が喪われた9・11同時多発テロ事件をわが脳裏に刻んでおこうと、この十年、様々な人々から話を聞いてきた。そんな私にとっても、世界貿易センタービル78階のコンピュータ会社に勤めるマイケル・ヒングソンさんの生還劇は鮮烈なドラマだった。彼は生まれながらの全盲。相棒の盲導犬ロゼールが常にぴったりと付き添っていた。原因不明の爆発と衝撃、燃え盛る炎、ジェット燃料の臭いが立ちこめるなか、マイケルとロゼールは生き残りをかけて非常階段を降り始めた。

 マイケルの恐怖はただひとつ。いまはみな冷静を装っている。だがもし停電になれば、暗闇のなかで人々はパニックを起こすだろう。何百人もの人が将棋倒しになったら、誰も生きては帰れない―。そうだ、そのときはロゼールと自分が誘導すればいいのだ。暗闇の世界に暮らすマイケルはこれまで困難な状況を乗り越え、生き抜く術を身につけてきた。そして、パートナーであるロゼールの並外れた嗅覚、聴覚、第六感に全幅の信頼を置いていた。マイケルは力強い声で呼びかけた。

「皆さん心配しないでください。もし停電になったらロゼールと僕がここから脱出させてあげます。料金も特別に半額で結構です」

 張り詰めた空気が一瞬和らぎ、笑い声が響き渡った。こうして、この日、非常階段に居合わせた人々は、危機のさなか心をひとつにして信頼の絆を結んだ。そして1463段の階段を励ましあいながら粛々と降りていった。文字通り「運命共同体」となった彼らは危機一髪、奇跡の生還を遂げたのだった。マイケルの脱出後、ほどなく世界貿易センタービルは崩れ落ちた。

 東日本大震災でも、人と人の堅い絆が多くの命を救ったことが報告されている。目が見えないことは決して障害ではない。ひとつの機能だ―。こう言い切るマイケルの言葉は、大地震とツナミ、そして原発事故に襲われたいまのニッポンにも大きな勇気を与えてくれると思う。

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