ウェルカム トゥ パールハーバー 西木正明著 (角川書店)
アメリカン・フットボールは、いかにも新興の工業国家アメリカが生みだしたスポーツだった。その複雑なルールも、緻密なゲーム構成も、システマティックにしてダイナミック。競技のルールを知っているだけでは、オフェンス(攻撃陣)とディフェンス(防御陣)が、攻守それぞれのタイミングでそっくり入れ替わるアメリカン・フットボールという試合を存分に楽しむことはできない。プロのチームが覇者の座をめざして戦う「ライスボール」の観戦に誘われたことがある。招待してくれた国務省の友人は、試合前に蘊蓄(うんちく)を傾けて、王者決定戦の見どころを解説してくれた。そうして観戦してみると、個々の選手が俊敏な豹を思わせて、躍動感をもってわが眼に飛び込んできた。
西木正明著『ウェルカム トゥー パールハーバー』のように、苛烈な状況に置かれたそれぞれの国家が、持てる情報の限りを駆使して対峙する、インテリジェンスを主題に据えた作品にも、或る種の解説が要るのかもしれない。ここでいう「情報」とは雑多なインフォメーションのことではない。手練れの書き手である西木正明は読者を物語の核心に誘っていく伏線を随所に張りめぐらしている。だがプロフェッショナルな書き手は、冗長な伏線は読者を退屈させてしまうことをわきまえている。それゆえ筆をできるだけ抑えて、筋の運びを弓矢のようにピーンと張り詰めたものにしようとする。だが「インテリジェンス・ワールド」に初めて挑む若い読者は、錯綜した地下水道に迷い込んで地上への出口を見失ってしまうかもしれない。やはり老練な道案内が必要だろう。
要らぬお節介は焼かないが、ちゃんと壺は押さえて教えてくれる―。『ウェルカム トゥー パールハーバー』の若い読者のために、そんな難しい役どころをこなせる人物がたったひとりいる。この西木作品の「影の主人公」といえるウィンストン・チャーチル卿がそのひとだ。そして格好の解説書こそチャーチル卿が自ら書き下ろした『第二次世界大戦』である。とりわけ「パールハーバー!」と題された章には、本書を十倍楽しむ里程標が埋め込まれている。
十七ヵ月に及んだナチス・ドイツとの孤独な大英帝国の戦いに終止符を打った真珠湾攻撃。「パールハーバー!」の章には、急報がチャーチル首相のもとに飛び込んできた時の様子が生々しく描かれている。
その日、チャーチル首相は、ルーズベルト大統領の特使アヴェレル・ハリマンやウィナント駐英大使を迎えて食卓を囲んでいた。午後九時、BBCの定時ニュースを聞こうと、ラジオのスイッチをひねった。トップニュースはロシア戦線の戦況だった。続いてリビア戦線に移り、ニュースの終わりに「ハワイで日本軍がアメリカを攻撃し、オランダ領東インドでは日本軍がイギリスの艦艇を攻撃した」と短い情報が伝えられた。第二次世界大戦の構図を一変させてしまう一報は、こうしてもたらされた。通常のニュースを中断する「ブレーキング・ニュース」としてではなく―。
チャーチル首相はすぐにルーズベルト大統領をホットラインで呼び出すよう幕僚に命じ、三分後には受話器からあの艶やかな低い声が聞こえてきた。
「大統領閣下、ニッポンはいったい何をやらかしたというのですか」
ルーズベルト大横領の声は心なしか沈んでいるように思えたが、落ち着いて事態を説明してくれた。
「そう、事実なのですよ。ニッポンはパールハーバーを攻撃しました。いまや、われわれは同じ一隻の乗りあわせているというわけですな」
チャーチル卿は、この章のなかで、山本五十六提督が自ら立案した日本海軍の機動部隊による真珠湾攻撃を公式戦史の編纂官のような乾いた文体で次のように綴っている。
「運命を決めた日の夜明け前、南雲機動部隊の総攻撃は、パールハーバーの北方二百七十五マイルの地点から始まった。三百六十の軍用機が奇襲攻撃に参加した。各飛行編隊にはあらゆる型の爆撃機が加わり、戦闘機に護衛されていた。午前七時五十五分、最初の爆弾が投下された。湾内には九十四隻のアメリカ海軍の艦艇が碇泊していた。なかでも、太平洋艦隊所属の主力戦艦八隻が第一の標的となった。幸いなことに航空母艦群は新鋭の巡洋艦隊に守られて、他の海域で任務に就いていた。午前十時までに攻撃は終了し、敵は引き揚げていった。後に炎と煙の帳に包まれ破砕された艦隊の骸が連なり、復讐を誓うアメリカ合衆国の意志が遺されたのだった」。
注意深い読者なら空母機動部隊の不在を述べたくだりに「おやっ」と思うだろう。
幸いなことに航空母艦群は新鋭の巡洋艦隊に守られて、他の海域で任務に就いていた―そう、戦後に公式の戦記を参照しながら執筆されたはずのこの部分は奇妙なまでに筆が省かれていまいか。太平洋海域の守りの要であるアメリカ太平洋艦隊の空母機動部隊が他の海域で任務に就いていたと述べながら、どこにいたのか、そして南雲機動部隊の次なる攻撃がなぜ実施されなかったのかについては、沈黙を守ったままだ。翌年、ミッドウェー海域で真珠湾奇襲の報復を果たすことになるヨークタウンなどの航空母艦群が温存されていたことに一切触れようとしていない。
戦時内閣を率いたチャーチル首相は、日本がやがて大英帝国のアジアの植民地に襲いかかり、オランダ領の油田地帯も手に入れるだろうと怜悧に予測していた。日本軍の南進は疑っていなかったことは、信頼できる史料によって裏付けられている。
その一方で、ルーズベルト大統領も、チャーチル首相も、日本の真珠湾奇襲を事前に気づいてはいなかった―というのが、現代史家の到達した結論である。
アメリカのルーズベルト政権に限って言えばその通りだろう。日本の空母機動部隊が真珠湾に接近しつつあるのを知っていながら、敢えて真珠湾の将兵を見殺しにした―。ルーズベルト大統領をめぐる陰謀説が戦後に繰り返し提起された。だがこうした陰謀説を確かな史料を示して立証できた歴史家はいない。ヨーロッパの戦いに関わるべきではないという孤立主義をアメリカ国民に捨てさせ、対ナチス戦争にアメリカを立ち上がらせるには真珠湾の悲劇が必要だったという思い込みが陰謀説を生んだのだろう。
だが、アメリカと血を分けた同盟国、イギリスに視点を移すと、歴史はまた異なる貌(かお)を見せはじめる。当時のチャーチル戦時内閣は、一日でも早くアメリカがナチス・ドイツと戦端を開くことを望んでいた。アメリカという国を「巨大なボイラー」に譬えた第一次世界大戦時のエドワード・グレイ外相の言葉を引いて、チャーチル卿は英国の渇望をこう述べている。
「いったん点火されれば、アメリカという国家が創りだす力にはとどまるところを知らない」
怒りの炎を天空に燃え上がらせる一撃がアメリカに振り下ろされる。炎天下の砂漠を旅する遊牧民が慈雨を待ち望むように、ロンドンはその日を待ち続けていた。それゆえ、パールハーバーへの奇襲の報に接したチャーチル首相は、第二次世界大戦の勝利を確信し、早々と宣言したのだった。
「アメリカ合衆国がいまこの時、死に至るまでの戦争に突入したという事実の重みが私には判っていた。それゆえこの時、われわれは既に戦争に勝っていたのである!」
大英帝国の戦時内閣を率いるチャーチル首相にとって、アメリカ合衆国を第二次世界大戦に直接引きずり込むことが戦略のすべてだった。ナチス・ドイツ軍がアメリカを攻撃するより、日本軍がアジアの英国植民地を襲うより、日本の空母機動部隊がパールハーバーを奇襲してくれることは、宰相チャーチルにとって至上のシナリオだった。アメリカという名のボイラーに怒りの火を注ぐこれ以上の筋書きはありえなかったからだ。
だとすれば、研ぎ澄まされたインテリジェンス感覚を持ち、優れたインテリジェンス組織を率いるチャーチル首相が手を拱いて事態を傍観するはずはあるまい―。西木正明はそう考えて、歴史という名のキャンバスに大胆な補助線を引いてみせたのだろう。これが『ウェルカム トゥー パールハーバー』だった。 若き日に探検家を志した西木正明は、長駆する脚力と想像力を拠りどころに、第二次大戦をめぐる国際政局に独り分け入っていった。この特異な作家が選びとった探索路は、処女作『オホーツク諜報船』で切り拓いたノンフィクション・ノベルという手法だった。そして旅路の果てに見たものは、日米交渉の背後に在って密かに影響力を振るう「チャーチルの刺客たち」の存在だった。大英帝国はアメリカ大陸に極秘のエージェントを配して、東京・ワシントンの離間を策していた。チャーチル首相の意を受けて、時にヒトラー総統を欺き、時にスターリン書記長を出し抜き、ルーズベルト大統領を一歩一歩対日戦争に誘い出していった。ルーズベルト大統領が遣わしたメリノール派の神父を相手に行われた日米秘密交渉という史実を物語の骨格にすえながら、アメリカ、イギリス、ソビエト連邦、ナチス・ドイツによる息詰まるようなインテリジェンスの戦いを活写している。
ここまで書き進めて、この物語をジェネラル・タモガミに一読を薦めたくなった。
ルーズベルト大統領は、三百人のコミンテルンのスパイを政権内に擁し、その巨魁がモーゲンソー財務長官の右腕ハリー・ホワイト次官補だった。ホワイトは対日最後通牒「ハル・ノート」の執筆者であり、戦闘機百機からなる義勇航空兵「フライング・タイガーズ」を蒋介石軍に供与して、真珠湾攻撃に先駆けて対日攻撃を敢行させた―田母神論文はこう断じている。確かに、ホワイトはクレムリンの情報提供者だったのだが、歴史の深層はよりニュアンスに富んでいる。
「ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる」
田母神論文はこう記して、「ルーズベルトの罠」に日本が嵌ったと主張している。列強が国家の生き残りを賭けてしのぎを削る国際政治の舞台では「殺すより騙せ」と言い慣わされてきた。敵に欺かれる―国家の指導層にとってこれほど恥ずべき大罪はない。時に敗北を喫することは致し方ない。その意味で『ウェルカム トゥ パールハーバー』は、ジェネラル・タモガミにとどまらず、先の大戦の敗北をあれこれ弁護する人々に痛打を浴びせる問題作なのである。耳の長いウサギであることをあきらめてしまったインテリジェンス後進国とならないために、ニッポンの全ての人々に読んでほしいと思う。