「第二次世界大戦」 ウィンストン・チャーチル著
力の行使をめぐる普遍的な教訓
「ジャーナリストは羨ましいですね。歴史上の巨人たちにも直に会って話が聞ける仕事なのですから」
そういわれてみれば、文化大革命の嵐を生き抜いた周恩来、東西ドイツの統一を成し遂げたヘルムート・コール、イラクへの先制攻撃に踏み切ったジョージ・W・ブッシュといった人々は、それぞれに人間臭く、忘れ難い人々だった。だからといって机の上に会見の写真を飾って懐かしんだりしたことはない。わが心はまだ見ぬ政治指導者たちに惹かれているからだ。手元の手帳には、時に相手を怒らせるかも知れない質問をぶつけて切り結んでみたい名が書き連ねてある。
ジャーナリストとは、なんと業の深い職業なのだろう。すでに遥か昔に逝った指導者でも、会わせてやろうと持ちかけられれば、迷わず「お願いします」と答えてしまうにちがいない。会ってみたい人物の筆頭は、ジョルジュ・クレマンソー。第一次世界大戦で祖国フランスを勝利に導き、「虎」(ティーグル)と畏れられた宰相である。ベルサイユ講和会議で凄まじいばかりのタフネゴシェーターぶりを発揮し、「ウッドロー・ウィルソン大統領を発狂させかけた」といわれる老練な政治家だ。アメリカ人ジャ-ナリストの会見記を読んだことがある。指定された時間にドアを叩くと、引退して久しいクレマンソーが姿を見せ「取材など受けた覚えはない」と煙に巻いてしまう。だが話が対独講和に及ぶと堰を切ったように語りだして倦むことがない。宿敵ドイツに抱いた敵意はそれほどに烈しく、膨大な賠償金を課してしまったのである。過酷な戦後処理はやがてブーメランのように戦勝国に跳ね返ってくる―。それがナチズムを胚胎させた土壌だったと喝破したのはウィンストン・チャーチルだった。
ナチス・ドイツのポーランド侵攻を機にチャーチルが海相に復帰すると、海軍省は全艦隊に「ウィンストン帰れり」と打電した。やがて宰相として戦時内閣を率いることになったチャーチルは、戦後『大戦回顧録』の筆を執り、続いて天下大乱の前奏曲を奏でた戦間期をも精緻に検証して『第二次世界大戦』を著している。「政治家は歴史に向かって演技する」といわれるが、この書は常の政治家が著す自叙伝から遠く隔たっている。チャーチルは自らを神の視座ともいえる高みに置いて、ベルサイユの勝者たちはなぜ誤ったのかと問い、戦争にいたった道程を冷徹に見渡している。
標題は『第二次世界大戦』なのだが、現代の古典というべきこの書の真髄は、大戦の足音が近づく数年の叙述にある。イギリスとフランスは、敗戦国ドイツがベルサイユ講和体制の軛(くびき)を脱して、再び軍事強国として復活しつつある現実を眼前にしながら為す術がなかった。いたずらに国際連盟の集団安全保障にすがり、新たな悲劇を招き寄せていった。フランスにクレマンソーなく、イギリスも政争に明け暮れ、欧州の異変に関心を払おうとしなかったと指弾している。
チャーチルという政治指導者の凄みは、宰相として戦争指導にあたった日々にあっただけではない。野に在って祖国の外交を見守っていた日々にこそある。ヒトラーが国際条約を蹂躙して非武装地帯のラインラントに侵攻した時、英仏の政府は毅然としてこの暴挙に臨まなかった。
「イギリスは、英仏両政府が共同で対処するにしても、熟慮を重ねた上で行動するため、しばし情勢を見守るべきだとフランスに忠告した。嗚呼、退却のために敷かれたベルベットのカーペットよ!」
ここには力の行使をめぐるチャーチルの深い洞察が籠められている。当時のヒトラーのドイツは、いまだ軍備が十分ではなく、英仏が軍事介入を辞さない姿勢を見せれば退却せざるをえなかった。伝家の宝刀を抜く意思を示せなかったことが、悲惨な大戦への道を用意してしまった。チェコのズデーデン分割を認めたミュンヘン会議の宥和に先だって、ラインラント進駐を黙認したこの瞬間こそ勝負の岐かれ目だったと断じている。チャーチルの炯眼だろう。
尖閣諸島をめぐる日本の対応を考える上でこの書には貴重な教訓が含まれている―凡庸を極めたそんな解説は、チャーチル卿に礼を欠くことになろう。新興の大国が力を背景とした外交姿勢をとる時、凛として行動しなければ相手に誤ったシグナルを送ってしまう―そこには普遍的な歴史の教訓が脈打っている。
「野に下った者は、現実の政策を実施しなければならない当局者に較べて、より豊かな想像力を働かせることができ、それゆえ優位に立っている」
第二次大戦の終結を待たずに選挙で宰相の座を追われたチャーチルは、野に在って、独仏連携を基礎としたヨーロッパ合衆国の構想を提唱した。今日のEUの隆盛を見れば、その先見性が抜きんでていたことがわかるだろう。平和な時にあって戦いに備え、野に在って国際社会の針路を指し示した畢生の書だと思う。