「よくできた女」 バーバラ・ピム著 芦津かおり訳 (みすず書房)
物語の舞台は、第二次世界大戦が終わり、人々がようやく静かな暮らしを取り戻しつつあったロンドン。当時のイギリスは戦勝国をいっても名ばかりで、肉もミルクも配給制のままだった。著者のバーバラ・ピムは、三十路をすぎてひとりフラットに住むミルドレッドという女性を語り手に、ロンドンのありふれた住宅街の暮らしを描いている。その淡々とした語り口はパステル画を思わせる。
ある日、彼女のフラットの階上に、風変わりな夫婦が引っ越してくる。文化人類学者だという妻のヘレナは知的で美しい。イタリアから帰還した夫ロッキンガムは海軍士官。そのハンサムな容貌と明朗な人柄で隣人たちをたちまち魅了してしまう。牧師だった親が遺してくれたわずかな蓄えで暮らすミルドレッドは、夫妻とバスルームを共用せねばならず、穏やかだった日々に波風が立ち始める。
妻のヘレナは学士院での研究発表に心奪われ、キッチンの洗い物を放っておくような女性だが、階下のミルドレッドは家事の全てを手際よくこなす「よくできた女」なのだ。夫のロッキンガムはそんなヘレナに苛立ち、ふたりは遂に一時別居してしまう。一方のミルドレッドも、親しくしていた教区の牧師に婚約者が出現し、彼女の身辺は次第に慌ただしくなっていく。
著者のピムが表題に掲げた『よくできた女』には幾重もの意味が埋め込まれている。古き良きイギリスの価値観に従えば「よくできた女」とは、家事をしっかりとやり、育児にも励んで、家庭を守る女性たちをいう。だが、著者は時代の地平の彼方に姿を現しつつあった新しい女性の一群を「よくできた女」に重ね合わせている。
戦争は発明の母だといわれるが、先の大戦は欧米の社会に有能な女たちを送り込むきっっかけとなった。バーバラ・ピム自身も戦前、オックスフォード大学のセント・ヒルダ・コレッジで学び、大戦中は検閲の仕事に携わっていた。高等教育を受けた女性たちは総力戦の貴重な戦力となった。情報の検閲や暗号解読の任務に徴用された一種のインテリジェンス・オフィーサーだったのである。
イギリスは、対独戦にかろうじて勝利し、穏やかな日常を手にしたが、戦後の社会には後戻りできない化学変化が起きていた。教会を中心とした暮らしのなかで慈善バザーに精を出すといった暮らしから離脱する女性たちが増えていった。彼女たちは、後にキャリア・ウーマンと呼ばれた「よくできた女」の変異種だった。
ちょうどその頃、イギリスは同盟国アメリカの意に逆らってスエズ運河に出兵し、アイゼンハワー政権は怒りをこめてポンドを売り浴びせた。大英帝国は落日のなかにいたのである。「20世紀のジェーン・オースティン」と呼ばれるピムが紡ぎだす物語には、そんな社会の動静など書かれていない。だが行間には老いた大国の悲哀が漂っており、ピム作品を味わい深いものにしている。
そしてそれゆえに、やがて出版メディアから拒まれて「忘れられた作家」となった。だが少数の目利きはいた。ロンドン・タイムズ紙の文藝欄で「ピムこそ20世紀で最も過小評価された作家」として取り上げられたことがきっかけで蘇り、『秋の四重奏』をはじめ新装版が次々に編まれるようになった。環境政策などで新たな構想を打ち上げて21世紀を主導するイギリスを英国病だなどと言う者はもはやいまい。復権を果たしたピム作品は、いまのイギリスの姿と重なっているように思えてならない。
2011年1月16日付 熊本日日新聞掲載