手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「知事抹殺-つくられた福島県汚職事件」 佐藤栄佐久著

正義なき司法の闇語る

書評これはスターリン独裁下のモスクワの出来事ではないのか―この本を手に取った読者はそんな錯覚に陥るだろう。凍てつく収容所列島でなければかかる不条理は起きようはずがない、と誰しも考えるはずだ。それゆえ一般の書評は、本書に書かれた事実を受け入れることに臆病にみえる。収賄事件に手を染めた有力知事の自己弁護ではという疑いを拭いきれないからだろう。

だが一審と14日に下された二審の判決文こそが、本書の供述を見事に裏書きしている。正義の名において公正に裁くべき裁判所は、ひとたび起訴された事件の99.9パーセントが有罪となる既成事実の前に屈伏している。果たして東京地裁も高裁も量刑を判決毎に軽くしたものの、被告を有罪として検察当局の顔を立てている。

その一方で、厳罰に処すべき知事の重大犯罪にも関わらず、執行猶予をつけて、追徴金も取らない苦肉の判決を下したのだった。裁判員なら贈収賄事件でカネの授受を立証できない事件など有罪にしないだろう。ふたつの判決は実質無罪を言い渡している。にもかかわらず、司法メディアは「有罪」と断じてその内実を報じようとはしない。ここに検察、裁判所、司法メディアが奇妙に癒着して、真実に向き合う勇気を持てない病弊が透けて見える。

東京地検特捜部が書き上げた筋書きはアクロバティックなものだった。大手ゼネコン前田建設は、福島県の木戸ダムの工事を受注するため、佐藤栄佐久前知事の実弟が経営する紳士服メーカーの土地を水谷建設を介して高く買い取らせ、「前田は一生懸命営業しているようだな」という天の声を出させたという筋立てとなっている。だが、一審、二審とも問題の土地を実勢より高く買わせて、知事の側がカネを受け取ったという事実を立証できなかった。また土木部長が知事室で知事と面談し「天の声」を聞いた事実を十分に立証できたとはいえない。そもそもダム工事はこの「天の声」なるものが出る以前に決まっていたのである。

佐藤前知事は、カネを一切受け取っておらず、「天の声」を出す仕組みは福島県にはなく、土地売買に上乗せした利益そのものが存在しない。一審と二審の判決は事実上これを認めざるを得なかった。収賄の事実があるなら、追徴金を課して実刑判決が相当のケースだからだ。

最強の捜査機関といわれる東京地検が唯一、拠り所にしたのは、知事の自白調書だった。知事を勾留して、スキャンダル雑誌の記事まで示し、関係者に自殺者まで出ていると伝え、自白を迫っていった。接見した主任弁護人の宗像紀夫弁護士は自白調書への署名に反対するが、「有権者の信任によって生かされた私は、死んだ」と思い定めて、一連の事件を収束させることを決意してしまう。

「あのとき被告が頑強に否認を続けていれば、勾留は何百日に及んだでしょう。体力、気力が果たして持ったかどうか」

宗像弁護士はこう述懐している。

「わたしは東京地検の特捜部に育てられたことに限りない誇りを持っている。いまもその気持ちに変わりはない。だがこの事件の捜査にかかわった特捜の検事たちだけは断じて許さない」

宗像紀夫は、福島のドン、木村守江知事を逮捕し、ロッキード事件の全日空ルートの公判を担当し、特捜部長まで務めている。ミスター特捜と呼ばれたその人が古巣をかくまで批判するのは辛かったろう。この国に正義は行われているのか―その眼差しは、もはや弁護人のものではなく、怒れる市民のそれだった。

熊本日日新聞 2009年10月18日付掲載

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