手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「菊の御紋章と火炎ビン」 佐々淳行著

平成ニッポンへの諫言「ひめゆりの塔」「伊勢神宮」が燃えた「昭和50年」

書評「危機管理の語り部」と呼ばれる人と極東のクライシスに挑んだことがあった。80年代半ば北朝鮮に核危機が起きると、首相官邸は検討チームを発足させ、佐々淳行を座長に指名した。外交記者の私に座長はこう切り出した。

「日米安保条約の抜かれざる伝家の宝刀、『事前協議制』を米側が提起してきた時に備えて、日本がとるべき方策を取りまとめてほしい」

想像すらできない事態を想定せよ。危機に臨む者の心得だ。だが経済大国ニッポンには、佐々のような人材は少なく、絶滅種に近かった。

佐々と私を結ぶ接点にこれまた絶滅種の若泉敬がいた。沖縄返還交渉で首相の密使を務めながら、一切の沈黙を守って福井に隠棲した人だ。当時は密約の存在すら知られていなかった。だが我々は幕末の志士を髣髴とさせる若泉敬の仕事を密かに識っていた。

本土に先んじてアメリカと国土決戦を敢行し、それゆえ軍政下に置かれた沖縄。その本土復帰を図るため、有事の核持込みを認める密約が交わされた。これに関わった若泉敬は、国家機密を敢えて公にする結果責任をとって、沖縄での自栽を覚悟していた。

こうして実現した沖縄の本土復帰から3年後、皇太子ご夫妻(当時)は、ひめゆりの塔を訪れ、事件は起きた。洞窟に潜む沖縄解放同盟の黒ヘルが、ご夫妻めがけて火炎瓶を投げつけた。警備責任者、佐々は、この事件だけは語ろうとしなかった。「皇室」と「沖縄」という二つのタブーに触れるからだ。永い逡巡の末、佐々は遂に筆を執った。

「火炎ビンの炎に立った皇太子ご夫妻の毅然たる態度は、いまでもまぶたの奥に焼きついている」

ご夫妻は何事もなかったように、微笑さえ浮かべて日程を淡々とこなしていかれた。 

佐々も「沈黙は武士のたしなみ」と考えていたはずだ。だが、眼前の惨状を見ているうち、やはりあるべき国の姿、皇室のありようを後世に伝えておかなければと決意したのだろう。それは密約の全てを明らかにした若泉の心境に通じている。平成ニッポンへの諫言だったのである。

産経新聞 読書欄 2009年7月26日掲載

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