手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書」 石光真人編著

維新の素顔目撃した武人

書評ロンドンの書店を久々に巡ってみた。その居心地のなんとよいことか。落ち着いた佇まいと清々しい書籍の配列。そして何より、刊行後はるかに時が経った本もちゃんと書棚に並んでいる。新聞の書評欄に取りあげられる頃には早々と返本してしまうニューヨークや東京の書店とは随分と趣きが異なっている。

そう感じ入って帰国してみたら「国際政治を身近に知るための新書を5冊ほど読書案内風に取りあげてほしい」という求めが雑誌社から舞い込んでいた。読者がすぐ見つけることができる本をと考えて数軒の書店を歩いてみた。だが若い方々に心から薦めたいと思う新書がなかなか見つからない。新書市場には日々膨大な新刊が供給されているというのに―。

しかし、絶望するのはまだ早い。多くの読者に読み継がれてきた新書が平積みにされているではないか。「国際政治 ―恐怖と希望」(高坂正尭著)。「荘子」(福永光司著)「アーロン収容所―西欧ヒューマニズムの限界」(会田雄次著)。お手軽なものより名著を手に取るほうがいい。こうしたリバイバル本のなかにその一冊は埋もれていた。『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』(中公新書)だ。1971年の初版というから38年ぶりの再会だった。

陸軍中佐時代の柴五郎のポートレートが載っていた。何度眺めてもいい。それほどに凛とした容貌なのである。『草の葉』の詩人ホイットマンが、ニューヨークの目抜き通りを行く遣米使節団のサムライを目の当たりにし、その威容に賛辞を惜しまなかったのも頷ける。柴五郎は会津戦争で祖母、母、姉妹を自刃させてしまい、自らは薩長によって下北半島に放逐される。極寒の地で草の根をかじって生き延びたが、サムライであり続けた人だった。そののち縁あって軍人となる。そして北京駐在の武官であった時、日露戦争の前奏曲、北清事変に遭遇する。柴五郎中佐は、北京にあって列国の部隊を見事に統率し、その沈着な行動は国際社会の賞賛を浴びたのだった。

このとき黒竜江の対岸にあるロシア領ブラゴベシチェンスクに在って参謀本部から密命を帯び諜報任務についていたのが熊本出身の石光真清だった。後に石光は大著『城下の人』『望郷の歌』『曠野の花』『誰のために』の4部作を綴って祖国日本への遺書としている。石光真清はかつて柴五郎宅で薫陶を受けた人だった。4部作の編集に当たった息子の石光真人が『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書―』の編著者であることは偶然ではない。柴五郎が石光真清の4部作に接したことこそ、私的に書き継がれていた遺書を世に出すきっかけとなった。

「時移りて薩長の狼藉者も、いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。恨みても甲斐なき繰言なれど、ああ、いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ悔しきことかぎりなく、心を悟道に託すること能わざるなり」

明治陸軍が持った最良の武人といわれ、会津人でありながら大将に進んだ柴五郎。その人は明治維新の出発にこれほどの恨みを孕んでいた。にもかかわらず、彼は誕生間もない明治国家を守り抜こうと、無私のうちにその身を捧げたのだった。だが、後の昭和陸軍が中国との無謀な戦いに突き進むに及んで「この戦は負けです」と断じて譲らなかった。明治維新の負の素顔を身をもって目撃したこの武人は、後の近代日本の悲劇の源を昭和陸軍の腐敗などより遥か以前の明治維新に求めていたのである。

熊本日日新聞 2009年7月5日付掲載

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