手嶋龍一

手嶋龍一

手嶋龍一オフィシャルサイト HOME » 手嶋流「書物のススメ」 » 書評

手嶋流「書物のススメ」

「やんごとなき読者」 アラン・ベネット著

女王題材に新ジャンル開拓?

書評陛下の飼い犬が、宮殿の厨房裏に停まっていた移動図書館にけたたましく吠えかかった。それがすべての始まりだった。エリザベス女王は移動図書館を覗き込み、飼い犬たちの非礼を運転手兼司書に詫びたのだった。一冊の本も借りずにその場を立ち去るのは気が引けたのだろう。かつて謁見したことがある作家の難解な小説を借り受けた。たまたまその場に居合わせた厨房の少年ノーマンを書記に取り立てて読書の相談役とし、読書にのめりこんでいくことになったのである。

英国の上流階級は知的とは言い難い。それゆえ読書もしない?。日本では皇族が見事な和歌を詠み、桂離宮のような美の世界を創りだす。だが英国では貴族たちは本など読まない人種と見られている。この点を十分に心得ておかなければ、奇想天外な物語を堪能できないだろう。そんな国で女王陛下が読書にはまってしまったのである。それゆえ陛下の読書熱は、君主制の土台を揺るがす危機を胚胎する事件だった。エリザベス女王は、50年の永きに及んだ在位を通じて、些細な公務にも決して手を抜かない行動の人だった。だが、読書に取り憑かれることで、やんごとなき人の内面には後戻りのきかない化学変化を引き起こしてしまった。

宮殿から国会議事堂に向かう馬車でも一心不乱に読み続け、帰り道も愛読書を取り出そうとする。だがクッション裏に忍ばせてあったはずのアニタ・ブルックナーの小説が見当たらない。廷臣たちが取りあげてしまったのだ。それほどに陛下の読書熱には風当たりが強まっていた。「爆発物の疑いあり」と警備陣が持ち去ったのでしょうと従者は言い逃れる。

「そうね。まさにそのとおりよ。本は想像力の起爆装置ですもの」

エリザベス女王は、こう応じて、様々な書物を触媒に他人の人生に深く入りこんでいった。

「読書は彼女をだめにした。いずれにせよ、こうした職務では満足できない人間にしたのである」

かくして行動の人であったはずの女王陛下は、膨大な書物と遭遇することで、思索の人に変貌していった。読書することで陳腐な常識から解き放たれ、自ら属する知的とは言いがたい環境からも離脱していった。彼女はますます多くの書物を渉猟し、心打ったフレーズを書き写し、やがて自らの思索を明晰な言葉で綴っていくようになる。

だが廷臣たちはそんなエリザベス女王の内面を推し量る想像力など持ち合わせてはいなかった。それどころか、彼女をアルツハイマー病だと見立てて、読書をやめさせる策謀を様々に凝らすのだった。そんな宮廷内の動きをよそに、わが女王陛下は読書に日々精励し、知性に冴え冴えとした輝きを増していった。

その果てに、エリザベス女王は、とてつもない自己変革を遂げ、旧弊な廷臣たちが心臓麻痺を起こしかねない大胆な決心を固めていく。その告白が物語の最後の一行で披露されるのだが、読者は女王陛下のチャーミングこの上ない人柄に魅了されてしまうだろう。

かつて陛下の忠実なる臣民だった秘密諜報員は、『寒い国から帰ってきたスパイ』を著して「情報小説」という新境地を示して見せた。女王陛下の持ち馬の騎手は、グランドナショナルで落馬した後、めくるめく「競馬小説」を世に送り出した。そしていま、女王陛下自らがお出ましになって「読書小説」という新たなジャンルを切り拓いてみせたのだった。

熊本日日新聞 2009年3月29日付掲載

閉じる

ページの先頭に戻る