手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「国家の崩壊」 ロバート・クーパー著 北沢格訳

みなぎるヨーロッパ世界の自信

書評英国の作家ジョン・ル・カレが「ドイツの小さな町」と呼んだボンに特派員として赴任した1995年の夏のことだった。ロンドンの友人がこう教えてくれた。

「ボンの英国大使館には逸材がいる。彼はやがて新しいヨーロッパ外交の設計者となるはずだ。冷戦後の世界を独自の視点から読み解く分析は、ジョージ・ケナンの公電を思わせる。そのきらめくような知性が、ピアニストの内田光子を捉えて離さないのだろう」

統一ドイツの暫定首都だった小さな町で、その人に出遭うのに時間はかからなかった。彼の名は、ロバート・クーパー。英国外務省は多くの知の巨人を生んできた。『外交』のハロルド・ニコルソンや『危機の二十年』のE・H・カーが代表格だ。彼らの系譜を継ぐこの人がどんな著作に心惹かれるのか尋ねてみた。われわれジャーナリストは、機密の公電に触れることがかなわない。それゆえ、こんな問いかけでその人のインテリジェンス・スタイルを探ってみることがある。返ってきた答えは意外なものだった。

「分厚い本はどうも苦手なのです。樽の中でゆったりと熟成させたシングル・モルトの一滴、そんな薄手の本がいい」

クーパーはやがて世に問う自著のスタイルを予告していた。9・11事件の翌年に発表された「新リベラル帝国主義」は、簡潔にして明晰な論考だった。それは、一国行動主義の旗を掲げてイラク戦争にひた走る「ブッシュのアメリカ」の対極に、ヨーロッパ世界の安全保障戦略を位置づけていた。国家の主権が制限されてもいい。その見返りに欧州の地に新たな秩序と結束を創りだす――。やがてクーパー構想は、EUの新しい安全保障政策の礎となった。この論考は『国家の崩壊―新リベラル帝国主義と世界秩序』と題されて出版され、18カ国で読まれている。明晰な思考に徹すれば、愚かな戦争を避けることができる。知的な営為を通じて国際平和に貢献したい―。著者はそんな志を秘めながら、現代世界の混沌に挑んでいる。

いまの国際社会は三種類の国家が混在する。アフガニスタンやソマリアのように満足な統治能力すら持たないプレ近代国家群。伝統的な国民国家の流れを汲む近代国家群。そして内政と外交の境目すら意味を失い始めたEU傘下の国家群がそれだ。ヨーロッパにあっては、30年戦争の終焉を受けて、1648年に締結されたウエストファリア条約によって近代の国家システムが産声をあげた。1989年に至って全く新しい国家システムが出現したと著者はいう。本書には古い国家主権のくびきを脱しつつあるヨーロッパ世界の自信が本書の端々に漲っている。

「ポスト近代のシステムは勢力均衡に依存しない。国の主権や、内政と外交の区別を強調することもない。欧州連合(EU)とは、ビールやソーセージといった身近なものに至るまで、互いに干渉し合うことを認める高度に発達したシステムなのである」

さらに本書は、ポスト近代国家の外縁部にも目を向ける。中国や北朝鮮のような近代国家群に囲まれる日本は今後の舵取りによってはEUと肩を並べるポスト近代国家に脱皮する可能性を秘めていると指摘する。

そして新生EUとロシアも、平和のうちに共存していくという楽観論に貫かれている。だが、グルジア紛争をきっかけに新冷戦の到来がいわれるいま、対決を強めるアメリカとどこまで一線を隠すことができるか。欧州に生まれたポスト近代国家システムがはじめて真の試練に晒されていることが本書から読み取れよう。

2008年9月7日付 熊本日日新聞掲載

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