手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「マイ・ドリーム」 バラク・オバマ 著

書評夜の街に流れる空気が微かに変わった。次の瞬間、車の助手席にいたインド人外交官が叫んだ。

「道を間違っている。ヤクの売人は拳銃をすぐに抜く。危ない、そのまま全速で走り抜けるんだ」

寂れたアパート群の前に黒人たちがたむろし、道路脇に停った旧式のシボレーからは険しい眼差しが向けられている。我々は閑静な住宅街で開かれたパーティの帰途、サウス・ボストンに迷い込んでしまった。そこは麻薬の密売地帯だった。90年代半ばには、都市に広がるこうしたガン細胞が、アメリカの深奥部を深く蝕んでいたのである。そして幾多の政治家が「現代の租界」に挑んでは敗れ去っていった。シカゴ郊外のサウスサイドもそんな貧民街のひとつだった。そこに大学を出たばかりの青年が身一つでやって来た。

「この街をどうにかしてやろうなどと思わんほうがいい」

年老いた黒人は、無垢な理想ほどいかに脆いかを体験から知っていたのだろう。懇々と諭したのだが、青年は決心を変えようとしなかった。「コミュニティ・オーガナイザー」として荒廃に立ち向かっていった。

この若者こそバラク・オバマだった。現代アメリカの恥部に分け入っていった若き日の姿を素描した自叙伝『マイ・ドリーム』はこう述べている。

「変革は巨大な組織が引き起こすものではない。草の根の胎動こそが変革の引き金となる」

だが、ハワイ生まれの黒人青年を待ち受けていたのは、獰猛なまでに過酷な現実だった。オールトゲルト地区で育った子供たちは、緑の庭すら見たことがない。一帯の公営住宅団地が「ザ・ガーデンズ」と名づけられているというのに。

「ここの子供たちは、使い古されたものしか目にしたことない。だから物をぶち壊しては、街をあっという間に破壊することにひたすら悦楽を見出していた」

常の若者なら早々に逃げ出していたことだろう。だが彼はこの不条理のなかに踏みとどまった。黒人としてこの国に生を享けるということが何を意味するのか。その解を見いださない限り、人生の次の一歩を踏み出すことができなかったからにちがいない。

アメリカは、「移民と奴隷で創られた国だ」と説明される。旧世界の圧制を逃れて移り住んだピルグリム・ファザーズと暗黒大陸から綿花栽培の労働力として売られてきた黒人奴隷で織りなされる国家、それがアメリカ合衆国なのである。バラク・オバマは「黒人初のアメリカ大統領を目指す男」と呼ばれるが、奴隷の末裔ではない。『マイ・ドリーム』で自ら述べているように、父はケニアから来た前途有望な留学生であり、母はカンザス生まれの白人だった。

暮らし向きはさほど苦しくなかったが、黒い肌へ注がれる人々の眼差しが慈愛に満ちていたわけではない。自叙伝には黒人奴隷を父祖に持つ人々と同じように扱われながら、気高き父の国の末裔である誇りを捨てきれない。そんな青年の内なる葛藤が淡々とした筆致で述べられている。オバマ青年にとって、シカゴ郊外の黒人街オールトゲルトこそ新たな自分を見つけ出す約束の地だったのである。

バラク・オバマは、ここの黒人教会を拠点に都市の砂漠を緑なす大地に変えようと格闘し続けた。そして3年後、ハーバード大学のロースクールに入るため、この貧民街をあとにしたのだった。だが、彼の人生に転機をもたらしたのは、名門校ではなく、サウスサイドだった。

「黒人のアメリカも、白人のアメリカもない。あるのはひとつのアメリカ合衆国だ」

青年政治家バラク・オバマの存在を全米に知らしめた4年前の民主党大会のスピーチは、すでに彼の地で姿を整えていたのである。シカゴ郊外の貧民街こそリンカーンを生んだ丸木小屋にも匹敵する存在だった。この自叙伝は、変貌を遂げる多民族国家に生を享けた青年政治家の内なる旅の記録であり、アメリカ民主主義の復元力を物語る書でもある。

2008年2月10日(日)熊本日日新聞 「手嶋龍一が読む」より

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