「英国紳士、エデンへ行く」 マシュー・ニール 著
アボリジニの絶滅 精緻に描く
いまの地球上には絶滅危惧種が溢れている。自然界では種の絶滅など特異な現象ではないが、人類の経済活動が貴重な種を滅ぼしてしまうことは自然の摂理とは言えまい。オーストラリア大陸の最南端、タスマニア島に暮らしていた先住民がアボリジニだった。オーストラリア東部を植民地とした大英帝国は、このタスマニアを流刑地として、多くの受刑者を送り込んだ。植民地政庁は、荒くれ男たちが肌の黒い先住民をホモサピエンスとは異なる種であるかのように扱うにまかせ、その暴虐の果てに梅毒まで蔓延させてしまった。そしてタスマニア島からアボリジニが絶滅した。1876年には純血種の先住民は姿を消したといわれている。アボリジニこそ19世紀の絶滅危惧種だったのである。
著者マシュー・ニールは、『英国紳士、エデンへ行く』(早川書房)と名づけた物語の道案内に、一隻の外洋船を仕立て、タスマニア島に読者を誘った。その名もSINCERITY号。そう、皮肉にも「誠実」の名を冠している。船客たちは、いずれもビクトリア朝時代の体臭を存分に振りまく面々だった。それゆえ英文の原題はENGLISH PASSENGERなのだ。この旅路の終わりにイギリス人船客は、絶滅の危機に瀕したアボリジニと身近に接している。 常の書き手なら、いつしか現代人の視点を忍び込ませ、この流刑植民地を打ち震えるような正義感で告発したことだろう。だがマシュー・ニールは、類まれな手法でアボリジニの島に入り込んでいった。二十人を超える雑多な人物を登場させ、公的な書簡も交えながら、さまざまな人々をしてタスマニア島に暮らす先住民の素顔をデッサンさせている。
タスマニアこそ聖書に描かれたエデンの園だと信じ、それを実証しようという奇妙な情熱にとり憑かれた牧師。アボリジニを劣等人種と信じて疑わない医師。人生の目的を見出せず苦悩の中で船客となった若い植物学者。滅び行くアボリジニに慈悲の気持ちを抱く総督夫人。妻の意向に引きずられてアボリジニをパーティーに招いて危機を招いてしまう総督――。そこにはビクトリア朝を生きた人たちの内在論理がおのずと滲み出ている。一人称を用いたり、地上を睥睨する全能の神の視座では、アボリジニ絶滅という不条理を語り尽くせないと著者は考えたのだろう。こうした叙述のスタイルにこの物語の美質がひそんでいる。一群の語り手にひとりの人物を著者はそっと配している。「誠実」号の船長、イリアム・クイリアン・キューリである。物語の紡ぎ手ともいうべきこの船長こそ、著者の分身なのだろう。
船長は、ケルトの血を引く人々が多く住むマン島人なのである。この島は英国領に属しながら、政治的独立を認められている。それゆえイギリスへの同化を拒む気風がいまも根強い。こんなマン島人気質を体現する船長の視点が物語の叙述にぐんと奥行きを与えている。じつは著者ニールの父親はマン島人の作家であり、母親はナチス・ドイツの迫害を逃れてイギリスに亡命したユダヤ人の童話作家だった。こうした家族の系譜がアボリジニの絶滅を描いた物語に深い陰影を刻んでいる。
日本ではノンフィクション作品ですら「私のいる風景」が好まれてきた。読者は著者の感情に自分を二重写しにし、一体感を味わってきた。私小説の伝統を色濃く残す日本では、私小説風ノンフィクションが幅広く支持されてきたのだった。だが事実は常に多面的な顔をしている。たとえ筆者が現場に居合わせていても、事態を精緻に描く資格を持っているとは限らない。英語教師として日本にやって来たことで作家として出発したニールは、私小説的な世界の光と影を存分に味わったのだろう。
自らは二十もの視点を重層的に駆使して、アボリジニ絶滅の物語を描いて見せた。その試みは見事に成功し、私小説の遺伝子を受け継ぐ日本の書き手たちへ無言の警告を発している。