「北方領土交渉秘録」 東郷和彦 著
「亡命の書」として読まれるべき対ロ外交の記録
僕はなぜか亡命者に心魅かれてきた。その果てに孤独の影を宿す五人の亡命者たちを追ってドキュメンタリー作品を制作したことがある。南アフリカの遠い夜明けを信じて国境を越えた白人ジャーナリスト。ハンガリー動乱を指揮してクレムリンに抗った将軍。カストロ打倒の見果てぬ夢を追い続けるハバナから来た男。民主カンボジアの幻を抱いてパリ郊外に暮らす詩人にして政治家。ロードアイランドの正教徒集落から遥かなるロシアに帰っていった若き実業家―。数奇な運命をたどった人々への思いはいまも絶ちがたい。
命ヲ亡ボス―。古代中国では国を去るとは命を喪うことだった。若き日のハンナ・アーレントも、ナチス支配下のドイツから無国籍者となってパリに逃れている。彼女にとって、ハイデガーの棲むドイツ哲学の森から逐われることは死刑宣告にも等しかったろう。続く冷戦の時代も、ポスト冷戦の時代も、おびただしい数の亡命者を吐き出し、人々から祖国を奪ってきた。こうした苛烈な現実から無縁に見えた戦後日本にも亡命者はいた。『北方領土交渉秘録 失われた五度の機会』(5月30日新潮社刊)の著者、東郷和彦がまさにそうだった。
「海外に身を置き、我が身を“ソルジェニーツィン”にならって、ひたすら『現在』できることに集中して一日一日を送っていた、私の四年間の“亡命生活”は、この二回の証言をもって終わりをつげた」
ソルジェニーツィンとサハロフ。東郷はソ連を去った『収容所列島』の著者に自らをなぞらえ、全体主義体制に身を置き続けたサハロフに佐藤優を投影している。「外務省のラスプーチン」と呼ばれた佐藤優は、日ロ支援協定を恣意的に利用し、国際会議をイスラエルで催すなど、国費を不正に使ったとして背任罪に問われた。事件当時、欧亜局長だった東郷も同じ容疑で特捜部の追及を受けたのだった。検察当局はロンドンで尋問をしながら、結局は東郷の逮捕を断念する。だが、弁護側の証人として出廷するようなことがあれば拘束すると暗にほのめかし、流浪の日々を強いたのだった。
ダブリン、ライデン、プリンストン、タイペイ、サンタバーバラ―。果てしなく続く彷徨のなかで、東郷は自らが関わった日ロ交渉の軌跡を綴り始める。僕が草稿を託されて読んだのはその頃だった。政治家の圧力によって二島返還論を唱えたことなどない―。自らを放逐した外務省への憤りが行間に滲んでいた。
だが、その草稿には事件の核心が欠落している。なぜ亡命しなければならなかったのか。この点がすっぽりと抜け落ちていたからだ。検察の影に怯えて逃げ続けながら、自らの釈明だけを綴った文章など読むひとはいないでしょう―。僕はこう告げて、著書を世に問いたいなら、まず裁判で証言台に立たなければと促した。
その頃、佐藤ラスプーチンは『国家の罠』が多くの読者を得て、不死鳥のように蘇りつつあった。 「東郷さんにはぜひとも帰国して欲しい。自分の裁判のためではない。公判に証人として出廷することで、人生の再出発を果たして欲しいのです」
もはや検察当局も動くまいという佐藤優の見立てを受け入れ、東郷の帰国がようやく実現する。国外に逃れて四年の歳月が流れ去っていた。
国際条約の最終的な解釈権は条約局長が有している。条約局長が日ロ支援協定に基づく国際会議への支出は適法と決済した以上、それを実施した佐藤優が罪に問われることなどありえない―。公判で東郷はこう証言し、それを冒頭に綴って、この著書はようやく成ったのだった。 ここに刻まれた亡命の物語があまりに痛切で、日ロ交渉の記録は色あせて見えるかもしれない。「失われた機会」の象徴といえる九十二年のロシア秘密提案の中味も、守秘義務を理由に、ついに明かされていない。その書に記されているのは、世論を説得できず、交渉の深い河を共に渡る政治指導部も持てなかったわが対ロ外交の葬列なのである。そうした意味でも、この書は「交渉秘録」としてではなく「亡命の書」として読まれるべきだろう。
新潮社「波」 2007年6月号 掲載