手嶋龍一

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北國に影落とすウクライナの戦い

 日本海を挟んで極東ロシアを望む北陸地方。この地にはかつても、いまも、ロシア、ウクライナから様々な人々が訪れ、暮してきた。そんな北國の街にはいま、ユーラシア大陸の遥か彼方で繰り広げられる戦いがくっきりと影を落としている――本誌の特集で、彼ら、彼女らの肉声に触れてそう実感した。

若き日の五木寛之はデビュー前年にナホトカ港に上陸し、モスクワでスチリャーガと呼ばれる無頼の若者たちと出遭った。彼らとの交流は後に『さらばモスクワ愚連隊』という小説に実を結んだ。圧政下のソ連で暮す青春群像を活き活きと描いて、日本の若者たちの心を鷲掴みにした。五木の物語世界に魅せられて、どれほど多くの若人があの時代バイカル号に乗って荒野を目指したことか。

 少年の日の五木寛之はソ連や旧満州と接する朝鮮半島北部で敗戦を迎え、大陸から引き上げて九州の炭鉱町で思春期を過ごす。やがて上京して早稲田大学の露文に学ぶ。あの戦争は遠景に去ったが、五木の内面には深い傷跡を残した。『蒼ざめた馬を見よ』の行間には、大陸の戦乱を目撃した者の心の傷が見え隠れしている。五木寛之はこれらの連作を金澤で執筆し、彼の地に生きるロシアの若者たちをみずみずしい筆致で蘇らせた。本誌に登場したロシア、ウクライナの青年たちは、五木作品で躍動するミーシャやエルザと重なって見えた。

 ロシア人であることで悪しざまに言われていないかと教師たちは教え子を気遣っているという。日本で暮す者にまで居心地の悪い思いをさせる。それは「プーチンの戦争」に大義が欠落している証左だろう。ウクライナ人の研究者が、戦乱の街から母親を呼び寄せた話にも心打たれた。戦いの当初は地下室に潜み、来日など考えもしなかったが、次第に危険が迫ったため子供のもとに身を寄せたという。だが、母親はメディアの取材に応じようとしない。現地に居残る親族に危害が及ぶと怯えているのだろう。彼の地の苛烈さが伝わってくる。

 五木の初期作品群は、強権的な政治体制に抗う若者たちを活写してなお輝きを喪っていない。敗北は自由な体制の死を意味する――マリウポリの争奪戦を戦う人々もそう覚悟しているように見える。それほどに彼の地の現実は厳しいのである。戦後永きにわたって平和な環境に身を置いてきたニッポンは、ウクライナの戦いを目の当たりにしたことで21世紀の現実にようやく連れ戻されようとしている。


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