手嶋龍一

手嶋龍一

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ノンフィクションと小説の間にて。

事実と事実の間にある心情

石井 手嶋さんの最新刊『鳴かずのカッコウ』を読ませて頂きました。ジャーナリストとして数多くの本を執筆されていますが、小説を発刊するのは十一年ぶりだそうですね。物語は、国内の「インテリジェンス(情報)」機関である公安調査庁が舞台です。

手嶋 この機関を知っている人は数えるばかりでしょう。武器も持たず、逮捕権もなく、予算、人員も少ない。〝最小にして最弱〟の情報組織です。主人公は安定志向のゆえに公務員となり、神戸の公安調査事務所に配属された漫画オタク青年。やがてインテリジェンス・ワールドへ迷い込んでいきます。

石井 世の中にはいろんな出来事があります。インテリジェンスはそれをつなぐ地下水脈のようなもの。地面を掘り進み、それを探り当てる面白さっていうのは、僕自身も取材を通して感じています。
 あたりまえのことですが、世の中の出来事って見えているがすべてじゃないんですよね。地下に張り巡らされた水脈を発見できれば、それらがまったく違ったものに見えたり、社会全体の構造が見えたりします。そこに真実がある。『鳴かずのカッコウ』を読んでいて、自分が携わってきた世界と重なるものがあると感じる部分がたくさんありました。

手嶋 石井さんが手がける取材対象は、常の報道とは違い、実はインテリジェンス・ワールドと隣り合わせです。フェイクニュースも混じった、膨大で雑多な情報、いわゆる「インフォメーション」から、価値のある情報を見つけ出し、彫琢したダイヤモンド。それが「インテリジェンス」なのです。それゆえ国家の舵取りを委ねられた指導者の決断の拠り所となります。
 石井さんも、執筆に際して、現場を丹念に踏査し、ダイヤモンドの原石をガラスの破片の中から見つけ出し、じっくりと品定めするはずです。そして、拾い集めた原石を並べ替えては眺め、その配列に潜むストーリーを読み取り文章に綴っています。これはもうある種の〝インテリジェンス・リポート〟なんですよ。

石井 確かにそうかもしれません。

手嶋 石井さんもノンフィクションだけでなく、取材で拾い集めた素材を小説の形で発表しています。知らず知らずに麻薬の運び屋にされ、マレーシアで死刑判決を受けた女性を描いた『死刑囚メグミ』がそうですね。取材を通じて得た材料をノンフィクション作品にすることもできたはずですが、そうしなかった。

石井 今回は敢えて小説という形をとりました。小説で描いた大半は事実でしたが、あとで説明しますが品位を保つために小説にしたのです。

手嶋 確かに事実だけを並べてもその底に潜む人間の心の風景は浮かび上がってこない。事実と事実をストーリーで結んで始めて事の真相が明らかになってきます。その意味で、ノンフィクションと小説を切り分けることなどできないと思います。
 ところが日本では、主に出版社の都合で、フィクションとノンフィクション、純文学と大衆文学に分かれている。書き手や読者の立場からみれば、そんな区別は本質的に意味がないと思うのですが。(笑)

石井 僕は〝人間オタク〟なんですよね。人間が好きなんです。良い面も悪い面も全部含めて「面白い」「感動」というような感覚なので。だから、単なる情報の切り貼りではその感覚を形にすることはできないんです。現実を通して僕が感じたことを読者に伝えようとすると、題材によっては文学的手法の方が圧倒的に有効なことがあるんです。だから最初から自分をフィクション作家、ノンフィクション作家と固定するのではなく、題材に合わせて臨機応変に対応するべきだと思っています。もちろんノンフィクションだからといって文学的手法を取り入れられないわけじゃありません。主観的、抒情的な書き方や、ミステリや独白のような形式を取り入れることで、より読者の心に訴える作品を作ることもできます。


「自分の世界観」があるかないか

手嶋 事実をいくら並べても核心には迫れない―そんな石井さんのお話を聞いてデイヴィッド・ハルバースタムを思い出しました。二〇世紀のアメリカが生んだ傑出したノンフィクションの書き手です。「ニューヨーク・タイムズ」のベトナム特派員として活躍し、やがてフリーとなってノンフィクション作品を書き始めます。なぜ独立したのか。「二〇〇〇字の鋳型」からの脱走だったと後に語っています。新聞の記事はどんなに長文でも二〇〇〇字から三〇〇〇字程度。だから知らず知らず、〝二〇〇〇字〟の檻に自分の思考が閉じ込められてしまう。新聞も雑誌も固有の制約がつきまとっており、いつの間にか、鋳型の囚われ人になると考えたのでしょう。その点石井さんは、雑誌や書籍、それにテレビなど多様なメディアを発表の場とし、仕事の進め方も実に多様です。巨大メディアを向こうに回した槍騎兵ですね。(笑)

石井 本ってそもそも、良い意味でも悪い意味でも新聞やテレビとは全く違うメディアです。テレビのニュースは膨大なお金と人間を投入して作り、無料で何百万人の人に見てもらうものですが、本は少ない予算で原則的には一人で作り、一五〇〇円の値段で数万人から数十万人を相手にするものです。大事なのは、本が求められているものは何か、本がもっとも力を発揮するものは何かを見極め形にすること。それができればテレビや新聞より圧倒的な力を持てますが、そうでなければ見事に蹴散らされてしまいます。本は、いわば大国に挑むゲリラ部隊、いやテロなんです。

手嶋 出版不況が叫ばれて久しいなか、昭和的に表現すると、石井さんのように「筆一本で食べている」という人は、とりわけノンフィクションの分野では、絶滅危惧種です。

石井 僕はノンフィクションの書き手でも、「ライター」と「作家」というのは結構違うものだと思っていて。もちろん、どっちが上とかいう話ではありませんが、ライターというのは基本的に雑誌のような媒体で活躍する人で、雑誌の〝型〟にある程度当てはめて書く力量が求められるんです。

手嶋 つまり、編集部の発注を受けて球を投げ返している人が「ライター」。日本語の語感だとそうかもしれないですね。

石井 じゃあ「作家」と呼ばれる人―例えば沢木耕太郎さんなどは、どこが違うのか。それは媒体に合わせるのではなく、自分の「世界」を作れる人なんだろうと思うんです。取材した素材を媒体に合わせてカットだけして刺身として出すんじゃなく、これは燻製にしよう、これは煮物がいいと考えて料理する。同じノンフィクションですが著者の味が出るんです。
 沢木さんの本を読んだら、物語性を通して、この人が書いているなってわかりますよね。それが作家性と呼ばれるものであり、そこに魅力があるから〝ファン〟つく。なぜなら、読者はその人の世界観が好きだし、その人の見方が好きだからです。すると、どういうテーマで書いても、ファンはその人が書いたものに関心を向けてくれます。


物語でしか表せないもの

手嶋 沢木さんの才能は言うまでもありませんが、彼が世に出た時には、活字メディアも隆盛を極めていました。でも石井さんは遅れてきた世代です。

石井 活字受難の世代です。

手嶋 ところが書き手にとって厳しい時代でも筆一本で生き残っている。その秘訣はどの辺にあったのでしょうか。

石井 もともと文学が大好きだったんです。ただ高校生くらいの時に、自分はそういう道に行きたいけれども、小説だけでは限界が来ると思いました。心に大きな傷を負っているわけでもないし、永遠のテーマがあるわけでもないし。そんな人間が、例えば柳美里さんみたいな人に対抗できるわけがないって初めから思っていて。そんな時に辺見庸さんの『もの食う人びと』を読んで、文学でノンフィクションが成立するんだって思ったんですね。ただし、最初から決めていたのは、三作だけ海外を舞台にした大きなノンフィクション作品を書いて、あとは対象を日本に移行しようということでした。

手嶋 ゲリラ戦の手法としては奇想天外ですね。

石井 方法論の問題です。二十代前半で就職経験さえなく、なんのコネもスキルもない僕が、メディアや巨匠に太刀打ちできる武器は、若者が世界に対峙した時の瑞々しい感覚だけ。ただ、それを一生続けるには限界があります。

手嶋 石井さんのように長期の戦略を秘めて書き手になった人はやはり希少種ですね。僕の場合は、インテリジェンス・サークル、端的にいえばスパイを含めた情報世界にほんの偶然から迷い込み、ものを書き始めました。
 インテリジェンス・オフィサーという人種は、庶民の前には姿を現さない。僕はジャーナリストという仕事柄、たまたま彼らの生態を目にしたのです。そのうち、自分の書くものの対象に勝手に入り込んできた。
 実は、彼らも我々と同じ〝ものを書く人たち〟なんです。情報士官もまたインテリジェンス・リポートを書くのが生業です。特派員は記事を、外交官は公電を綴るのですが、インテリジェンス・オフィサーが書くものはどこが違うか。新聞記事なら〝いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのように〟を記す「5W1H」という鋳型があり、スタイルもほぼ決まっています。これと同じなら、忙しい政権首脳は読んでくれない。だから優れたインテリジェンス・リポートにはストーリー性があるのです。事実を述べ、情報源の言葉を引きながら、巧みなストーリー性が付与されています。膨大な生の情報の海からエッセンスを選り抜き、はっとするようなエピソードを添えて巧みに構成してある。石井さんの仕事に近いと思いませんか。

石井 そう言われてみれば確かにそうですね。

手嶋 実はインテリジェンスの語源には「物語る」という意味があるんです。ですから優れたインテリジェンス・リポートは、読んで面白い。〝人間オタク〟の石井さんに訴えるところがあるはずです。行間には人間の素顔も覗いている。その意味で石井さんが目指すものと、インテリジェンス・サークルのそれは、意外にも近い地平にいると思います。

石井 興味深いですね。僕らが探し出す情報についても、こっちで描きたいと思う、あるいは本質的に重要だと思うものは、物語でしか表せないケースがままあります。
 例えば東日本大震災が起きて取材に行きました。役所や警察は行けば、今日何名の方の犠牲が判明したとか、何件の火葬が完了したといった情報を得ることができます。しかし本当に重要なのは、そうした統計情報ではなく、ご遺族がどんな気持ちで現実と向き合っているのか、その周りで誰がどのように支えようとしてるのか、そして町の人たちはどこに進もうとしているのかということですよね。そう考えた時、統計情報のようなことを書き連ねるのではなく、当事者や関係者のそこにいたるストーリーを描かなければなりません。僕が常々、マスメディアは情報をつかんで流すことに長けているけど、本の書き手はその深層にあるストーリーを見つけ出して描くことが重要だと言っているのはそのためです。


近未来を予測し意思決定を促す

石井 ご著書を読むと機密情報のルートが社会の裏ルートと重なることがあるようですね。
 僕の知っている例だと、麻薬の密輸ルートが、西成のおっちゃんの間で売り買いされている密輸煙草のルートだったり、通販で売っている激安バイアグラのルートだったりする。それと同じルートに国家の機密情報も流れている。

手嶋 市井の人たちが暮らす日常の中に、そうした〝ケモノ道〟が隠れていると思います。

石井 その〝ケモノ道〟は、時代の変化の中で常に道筋というか、流れが変わっているように思います。政治、経済、災害などあらゆるものの影響を受けて変化する。
 手嶋さんの作品で面白いと思ったのは、大上段に構えた情報や分析とかいったことではなく、そうしたケモノ道を含めた人間の〝生態系〟そのものが描かれていることでした。

手嶋 情報士官が人に接触して情報を収集することを「ヒューミント」、つまりヒューマン・インテリジェンスと呼びます。情報活動の中央山脈です。情報士官は「ヒューミント」を通じて宝石のような情報をつかみ、分析し、近未来に起きつつある出来事を警告し、国家の舵取りを委ねられた政治指導者に伝える。国家に忍び寄る危機にどう臨むのか、采配を揮う拠り所となります。ですから、報告は、単に事実を述べたインフォメーションではダメなのです。いくら新聞を隅々まで読んでいても、それはインテリジェンス・リポートじゃない。ですから決断の拠り所にはならない。
 戦後の日本は、欧米のような情報機関を持たないまま一時は世界第二位の経済大国になりました。しかし、これからの半世紀、国家の触覚なしにやっていけるでしょうか。今回は物語のかたちで、いまの日本が直面しつつある危機を描いてみました。そんな現在進行形の事態を若い方々と共有することで、この国がどのように舵を定めていけばいいか、共に考えたいという思いがありました。「インテリジェンスの技を磨くとはこういうものですよ」と少しでも若い方々に伝えることができればと思ったのです。そのためには、インテリジェンスの最前線を描く物語で伝えるのがいいだろうと。
 もっとも、小説という形式を取った隠れた理由のひとつは、情報源の秘匿もありましたが―。石井さんも『死刑囚メグミ』をノンフィクションではなく小説として出すにはそれなりに理由があったはずです。

石井 そうですね。僕は作品を書く上で品位を保つことを大事にしています。確かに『死刑囚メグミ』はノンフィクションでも十分に面白いものになり得たと思います。実際、彼女を利用した人物は小説以上に悪辣で、ノンフィクションとして〝こんなに悪い奴がいる〟と批判・糾弾すればスッキリする読者もいると思います。しかし、それではカタルシスはなくなる。やっぱり批判が強く出ると、品位がなくなってしまうんですよ。事件の実態は描けたとしても、その根本にある〝人間〟をどこまで描き切れるのか葛藤しました。それで最終的に、ノンフィクションより、小説として描いた方がいいと思ったんです。

手嶋 表現の幅は広い方がいい。アメリカで生まれたニュー・ジャーナリズムは、小説的な技法を取り入れたノンフィクションと説明されますが、ゲイ・タリーズの『名もなき人々の街』という短編ノンフィクションは優れた短編物語より面白い。
 フィクションとノンフィクションを、単に虚構か真実かという視点で区別することにはあまり意味がない。現実の出来事は我々の想像を絶して錯綜していますから。

石井 先ほど、生態系という言い方をしましたが、突き詰めれば情報だって生き物のように刻一刻と変化している。いつこういうことがありましたという証明だけで、その生態系全体を描き切ることができるでしょうか。そうしたとき、物語の手法を用いるほうが、ともすれば本当の意味で真実に迫れるということなんだと思います。


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