手嶋龍一

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冷戦の廃市

 ジョン・ル・カレが刻んだ冷戦の墓碑銘――その現場に幾度か立ったことがある。冷戦都市ベルリンの壁でチェックポイント・チャーリーを見上げた時には、寒い国から帰ってきたスパイの悲痛な叫びが聞こえてくるようだった。

 「ボンは死人の出た暗い家だ」――。ル・カレが『ドイツの小さな町』でこう表現した暫定首都に、九〇年代半ばに特派員として赴任した。ライン河対岸のケーニヒスヴィンターとボンを結ぶ渡しは、外交官に偽装したかつてのル・カレも通勤に使っていた。防弾ガラスを施したベンツに乗る不機嫌な老人と隣り合わせたという。この人こそ冷戦の闘士として知られる宰相アデナウワーだった。私が暮したボンは「冷戦の廃市」になりかけていた。小さな町から片時も眼を離すな――ル・カレは、欧州政局の不吉な震源地であり続けるだろうと警告した。

 ル・カレも属していた六〇年代のMI6は、二重スパイキム・フィルビーに蚕食されて瀕死の重態だった。最上層部に潜む「モグラ」を突き止め、宿敵カーラを追い詰める。スマイリー三部作は、裏切りによって深手を負ったスパイが名門のパブリック・スクールに教師として赴く鮮烈なシーンから幕を開ける。冷たい戦争の実相を壮大な叙事詩のように描いてスパイ小説の域を軽々と超えてみせた。

 第二作の『スクールボーイ閣下』の舞台は一転香港とインドシナ半島へ。英国秘密情報部に舞い戻った老雄スマイリーは、レパルス湾を望む拠点を引き払ったと見せてモスクワに壮大な反攻を試みる。筆者は物語と同じ七〇年代初め、香港島から対岸の深圳を経て上海、北京に旅し、後に中ソ国境も踏査した。ル・カレの情報網がどれほどの深度に達していたことか。その深層を垣間見た者として、歴史の風雪に耐えて生き残るのはこの作品だと思う。

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